入門講座・番外編 肉親と「父なる神」

 先日、コメントの中で「父なる神」という言葉がいま一つぴんとこないという趣旨の投稿があった。実際の父親はそんなに理想的なものではないし、「父の愛」と言われても実感が伴わないということだと思う。最近は「父なる神」だけでなくて「母なる神」という言い方もされるようになってきたが(『カトリック生活5月号』など)、「母なる神」と言われてもうちの母親は仕事ばかりしていて自分のことをあまりかまってくれなかったとか、自分の夢を実現するためにわたしを利用しようとするような母親だったとか、あるいは母親に暴力を振るわれたという人もいるだろうから、やはり同じような難しさをはらんだ表現だと思う。
 コメントをいただいてから、わたしなりにいろいろと考えていたのだが、次の聖書の箇所を読んでいた時にふと思い当ることがあった。
 「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」(マタイ23:9)
 この言葉は、イエスの父である神に従うとき、もはやわたしたちの間にこの世での家族関係は意味を持たないという意味にとれるのではないだろうか。つまり、わたしたちの肉親にとっても「天の父」だけが父なのであって、「天の父」前では肉親もその息子や娘であるわたしたちも、まったく同等に「神の子」だということだ。そのように考えるならば、父も子も神の前にまったく対等な存在になる。まったく対等な人間として、酒に飲まれて自分に暴力を振るわずにはいられなかった父親、子どもの心を踏みにじらざるをえないほど心に深い傷を負った父親を見るならば、父親に対しても憐みの情がわいてくるのではないだろうか。みじめで不完全で罪深い、自分と同じ1人の人間として父親を見たときに、わたしたちの父親に対する見方はきっと変わるだろう。
 神が求めておられるのは、不完全な人間である父親の至らなさを責めることではなく、そのような父親も大切な「神の子」として愛する心、本当の父である「天の父」の愛に包まれて、肉親である父の傷も受け入れられるような心ではないだろうか。同じことが母親についても当てはまるだろう。実際にそのような心を持つのは難しい。しかしそれでも、神が求めているのはそのような心だと覚えておくこと、そしてその心を目指して自分を乗り越えていくことができるようにと神に祈ることは、「父なる神」が支配する「神の国」の実現を目指すキリスト教徒として大切なことなのではないかと思う。