バイブル・エッセイ(509)「もう泣かなくともよい」


「もう泣かなくともよい」
 エスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。(ルカ7:11-17)
 夫を亡くした女性が、最愛の一人息子までも失って悲嘆にくれています。門から担ぎ出されようとしている息子の棺にとりすがり、号泣していたのかもしれません。イエスは、その姿を見て憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と声をかけます。「もう泣く必要はない。」なぜなら、息子は死んでいないからです。死は、すべての終わりではなく、新しい命の始まりに過ぎない。神の愛は、死さえも飲み込んでしまう。そのことをはっきりと伝えるために、イエスはこの女性の息子をよみがえらせました。
 わたしたちが肉親や友人、親しい人を失って涙にくれているとき、イエスはわたしたちの傍らにやってきて、同じように「もう泣かなくともよい」と声をかけて下さいます。実際、もう泣く必要はないのです。イエスは、十字架上の死と復活によって死に打ち勝ちました。死は終わりではなく、新しい命の始まりにすぎないことを、ご自分の身をもってはっきりわたしたちに教えて下さったのです。泣きじゃくるわたしたちに、イエスは十字架上から「もう泣かなくともよい」と声をかけてくださいます。死を悲しむ必要など、もうどこにもないのです。
 父親を若くして亡くした女性からこんな話を聞いたことがあります。大好きなお父さんが病気で急に亡くなり、彼女は悲嘆にくれていました。何カ月たっても父の突然の死を受け入れることができず、神様もなんとなく信じられなくなり、教会からも足が遠のきました。半年くらいして、ある日たまたま教会の前を通りかかったので、彼女は聖堂に入り十字架の前で祈っていたそうです。「なぜお父さんを奪ったのですか」と神を責めながら、十字架の前で泣いていたのです。そのとき、泣きながらふっと十字架を見上げると、十字架の向こうからお父さんがほほ笑んでいるのが見えました。涙の向こうに、大好きなお父さんの笑顔が見えたのです。そのとき、彼女の心にはじめて大きな安らぎが訪れました。「お父さんは死んではいない。天国からいつも見ていてくれる。泣く必要などない」、そのことに気づいたのです。いつまでも泣いていれば、天国のお父さんを悲しませるだけ。これからは、天国のお父さんに喜んでもらえるように生きてゆこうと決心したのです。
 エスは、悲嘆にくれ、涙を流している人のそばにそっとより沿ってくださる方です。「もう泣かなくともよい」と声をかけて下さる方です。死による別離のときだけではありません。思いがけないことが起こって、人生の予定がすっかりくるってしまった。「こんなはずではなかった。わたしの人生はもう終わりだ」と涙にくれているときにも、イエスは十字架の上から、「もう泣かなくともよい」と声をかけて下さいます。エスの人生も、思いがけない終わり方をしましたが、それは始まりに過ぎなかったのです。家族や友達から裏切られた。「わたしは独りぼっちだ。誰もわたしのことをわかってくれない」と涙にくれているときも、イエスは十字架の上から、「もう泣かなくともよい」と声をかけて下さいます。たとえ世界中の人に見捨てられたとしても、イエスだけはわたしたちを見捨てることがないのです。
 悲しみに涙がとまらないときには、十字架上のイエスを見上げましょう。イエスの十字架の中には、すべての悲しみを乗り越えてゆく力が隠されています。「もう泣く必要はない」というその理由が、十字架にすべて凝縮されているのです。十字架を見上げ、立ち上がる力を神に願いましょう。