バイブル・エッセイ(4) ダビデの王権とキリストの王権

 
 エスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。(マルコ12:35-37) 
 今日読まれた箇所を理解するための前提として、サムエル記下7章で神がダビデとの間に結んだ、いわゆる「ダビデ契約」を思い起こす必要があるでしょう。神がダビデに、ダビデの子孫が支配する国は永久に揺らぐことがないと約束した契約です。当時のユダヤ教徒たちは、この約束がやがて実現されて、再びダビデの子孫の中からダビデが築いたような強大な王国を建て直し、ユダヤ人を異教徒の圧迫から解放するメシアが現れることを待ち望んでいました。
 しかし、イエスはそのような律法学者たちのメシア理解が誤っていることを、同じ旧約聖書詩篇110を引用することで論駁します。メシアはダビデの子孫から生まれるのではない、つまり、ダビデが建てたような地上の王国を建てるものではないとイエスは言いたかったのでしょう。人々は、ダビデよりも強力な王としてのメシアが現れるとイエスが言ったのだと誤解し、イエスの教えに喜んで耳を傾けていました。しかし、イエスが語ったメシアがもたらすのは、ダビデの王国のような金銀財宝や勝利の栄光に飾られた「地上の王国」ではなく、十字架につけられた無力でみすぼらしいイエスが息を引き取るときに実現する「神の国」だったです。
 ダビデの王権が力で人を従わせる王権、讃えられ、愛されることを求める王権だとすれば、キリストの王権は人々の要求を受け入れる王権、愛されることよりも愛することを求める王権だったということができるでしょう。わたしたちの身近な例を引くならば、次のようなことがいえるのではないかと思います。
 もしわたしたちが誰からも愛されないとか、誰からも関心を持ってもらえないと思って、愛されたり関心を持たれたりするのに値しない自分を責めたり、愛してくれたり関心を持ってくれなかったりする他人を責めたりするならば、それは「ダビデの王権」の心だと思います。力ずくで自分の理想を自分自身や他人に押し付けようとしているからです。逆に、自分の思い通りにならない自分や他人を受け入れ、愛するならば、それは「キリストの王権」の心でしょう。
 わたしたちは華やかな「ダビデの王権」に与ることはできませんが、「キリストの王権」にならば与ることができるでしょう。病気で起き上がることのできない人でも、「キリストの王権」にならば与ることができます。今日は「イエスの聖心」を記念し、病者のために祈る初金曜日ですから、特に病気で苦しんでいる人々が「イエスの王権」に与り、「神の国」の中心になっていくことができるよう願いたいと思います。
※写真の解説…シリアとイラクの国境近くにあるパルミラ遺跡。ダビデの子、ソロモンの時代に王国の最大版図はこの地にまで及んだ。