入門講座(7) イエス・キリスト④〜「復活」とは何か?〜

《今日の福音》マルコ12:13-17
 今日読まれた福音は、「納税問答」として知られている有名な箇所です。なんとかしてイエスを陥れ、活動できないようにしてしまおうと狙っていたファリサイ派やヘロデ派の人々は、狡猾な質問を準備してイエスに近づきました。もしイエスが税金を納めなくてもいいと言えばローマに反乱を企てていると言ってローマ総督に訴えることができるし、納めるべきだと言えばローマ皇帝を神として崇めていると言ってユダヤ教の権威者たちに訴えることができるという質問です。そのことに気づいたイエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という有名な言葉でこの問い答えました。
  この言葉は何を意味しているのでしょうか。聞いていた人々は驚いたとありますが、一体何に驚いたのでしょうか。この箇所の解釈をめぐっては、聖書学者の間ですら意見が分かれています。ためしに岩波書店が出している『新約聖書』でこの箇所を開いてみると、まったく違う翻訳が載っています。「カエサルのものならカエサルに、つまり『神様』のものなら『神様』に、お返し申し上げよ」という翻訳です。この訳に従えば、イエスは自分が神であると主張していたカエサルと、カエサルに追従する律法学者たちを皮肉ったことになります。みなさんは、この言葉をどう受け止めるでしょうか。

《「復活」とは何か?》
 これまでにわたしたちは、イエスが救いであることの理由を2つ学びました。神と人間との完全な仲介者であるイエスがわたしたちと共に生きたことによって、人間に初めて神の真の姿が示されたということ(受肉の神秘)、そしてイエスの十字架上の死によって人間と神との間に完全な愛の交わりが実現したことによって、すべての人間がいつか神との完全な愛の交わりに入ることができると約束されたこと(十字架の神秘)の2つです。これらの救いはイエスの「復活」による救いとどのような関係があるのでしようか。イエスの「復活」は、わたしたちにとってどのような意味で救いなのでしょうか。

1.出来事としての「復活」
 まず「復活」と呼ばれている出来事が、どのようなものだったのかについて考えてみましょう。
(1)弟子たちの人生の転換点
 はっきりしているのは、「復活」と呼ばれる出来事が弟子たちの人生にとって転換点となる決定的な出来事だったということです。ローマ兵に捕えられたイエスを見捨て、十字架上で死んでゆくイエスを見殺しにした弟子たちが、この出来事を転換点として今度は逆に、自分の命さえもかけてイエスの伝えた福音を宣教し始めたからです。逆に言えば、このような弟子たちの態度の転換点となった出来事こそが「復活」だったということができるでしょう。弟子たちの態度が、何のきっかけもなしにこれだけ変わるということは考えられませんから、やはり弟子たちに「復活」と呼ばれるなんらかの出来事があったことは間違いないと思います。
(2)弟子たちへの出現
 「復活」の出来事が最もはっきり描かれているのは、「復活」したイエスが弟子たちと出会う場面でしょう。ヨハネ20章に描かれたマグダラのマリアや12使徒への出現、ルカ24章に描かれたエマオに向かう弟子たちへの出現などがその代表的なものです。これらの出現物語を読むと、いくつかのおかしなことに気づきます。イエスと話し、食事を共にしたという記述から、弟子たちがイエスを生きた存在として実感していたことがわかります。しかし、弟子たちは最初イエスと出会ったことに気付かなかったり、イエスの姿を急に見失ったりしているのです。それに、イエスの側から現れない限り、弟子たちは決してイエスと会うことができません。これらの事実を要約すると、イエスと弟子たちとの出会いは、①イエスの意思による、②イエス本人だと分かるが、③十字架につけられる前のイエスとはどこかが違う、④生きたイエスとの出会いだったということができるでしょう。
(3)出来事の2つの側面
 すべての出来事には2つの側面があります。わたしたちの外で起こった出来事それ自体(出来事の客観面)と、それらの出来事と出会うことでわたしたちの心の中に起こった出来事(出来事の主観面)です。たとえば「通り魔殺人」という出来事があったとき、わたしたちの心の中に何か重苦しく、やりきれない思いが生まれてくるでしょう。それが、出来事のもう1つの側面だということです。
 「復活」を出来事として考えたとき、「復活」にも2つの側面があると言えます。イエス・キリストに起こったなんらかの客観的な出来事と、それと出会った弟子たちの心の中に起こった主観的な出来事です。わたしたちは、弟子たちの証言を通してしか「復活」の出来事を知ることができませんから、客観的な出来事としての「復活」は推測によってしか知ることができません。しかも、「復活」は神であるキリストに起こった出来事ですから、人間が完全に知りうるようなことでもありません。わたしたちにできるのは、弟子たちの心で起こった主観的な出来事から、「復活」と呼ばれる出来事の客観的な側面をおおよそ類推することだけです。ここまでにお話ししたことからは、「復活」という出来事が、弟子たちの人生を根底から変えてしまうほどのなにかとてつもない出来事だったということができるでしょう。

2.「復活」という呼び名
 では、弟子たちはなぜそのとてつもない出来事、人間の理解を越えた神秘的な出来事を「復活」と呼んだのでしょうか。それを知るためには、当時流行していた終末思想と呼ばれる考え方を知っておく必要があります。
(1)終末思想における死者の復活
  終末思想というのは、紀元前2世紀から紀元後2世紀くらいにパレスチナ地方で流行していた思想です。その思想は、神がこの世界に対して決定的な介入をする終末が近づいていること、終末には「人の子」と呼ばれる裁き手が現れて人々の罪を裁くこと、終末における裁きの前提として死者が蘇ること(復活)などを教えていました。ダニエル書7章や12章に、この思想の影響とみられる言葉が見られます。
  死んだはずのイエスと出会った弟子たちは、これはきっと終末の前提としての死者の蘇りだろうと考え、この出来事を復活と呼ぶことにしました。(弟子たちがイエスの「復活」を終末思想における復活と解釈したことで、それまでなかった「世の終りが近い」という考え方がキリスト教に入り込んだという見方もあります。)
  しかし、実際に起こった出来事は単なる死者の蘇りとしての復活ではなく、弟子たちの生涯を決定的に変えてしまうほどの意味を持ったもっと偉大な出来事としての「復活」だったと考えられます。単に死者が蘇っただけだとすれば、イエスは再び死ぬ運命だということになりますが、イエスの「復活」はそのような出来事ではありませんでした。イエスの「復活」は、単なる死者の復活ではなかったのです。そのことが、「復活」という出来事のもう一つの呼び名からわかります。
(2)「復活」のもう一つの呼び名
 聖書の中で、「復活」の出来事を指している言葉がもう一つあります。それは、「高く挙げる」(「高挙」・こうきょ)という言葉です。フィリピ書2章はそのことを「神はキリストを高く挙げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」と表現し、一テモテ3章は神がイエスを「栄光のうちに上げられた」と表現しています。これらの表現が語っているのは、イエスが神と同じ高さにはまで挙げられ、神と同じものになったということです。「復活」したイエスと出会い、イエスがもはや人間をはるかに越えた方であるといことを実感した弟子たちは、その体験を「高挙」と呼んだのだと考えられます。
 この「高挙」という表現から、「復活」が単なる死者の蘇りではなかったことがはっきり分かります。「復活」したイエスは、もはや元と同じ人間ではなく、神と同じ領域に属する存在として弟子たちに現れたからです。弟子たちは、「復活」したイエスがもはや人間の理解を越えた領域に入られたということを、イエスとの出会いから感じ取ったのです。

3.「復活」の意義
 ここまでお話ししたことから、「復活」と呼ばれる出来事が、①弟子たちの人生を根底から変えてしまうほどの決定的な出来事であり、②生きているイエスとの出会いの出来事であり、③イエスが神の領域に挙げられたということを確信させる出来事だったということがわかります。わたしたちが「復活」と呼ばれる出来事について推測できるのは、この辺りまでのようです。
 では、この「復活」は弟子たちにとって、また現代に生きるわたしたちにとってどのような意味を持つのでしょうか。これまでお話ししてきた「受肉の神秘」や「十字架の神秘」との関係も含めて、ここでは5つの意味を紹介したいと思います。
(1)「受肉の神秘」の確証
 イエスが死後、神の領域にまで引き上げられ、神と同じ存在にされたという出来事から、生前のイエスの言動がすべて神の自己表現だったということが確証されたと考えられます。死んだあと神の領域にまで挙げられたイエスは、生前も神と完全に一致して生きていたはずだと考えられるからです。イエスが「復活」したことによって、「わたしを見たものは父を見たのだ」(ヨハネ14:9)というイエスの言葉が裏付けられたと弟子たちは信じました。もしイエスが「復活」しなかったならば、弟子たちはこのイエスの言葉を信じられなかったのではないでしょうか。
(2)「十字架の神秘」の確証
 イエスの「復活」はまた、イエスが十字架上で神の愛に完全に満たされたということの確証でもあります。イエスが神の栄光に満たされて地上に現れたという出来事から弟子たちは、神がイエスの捧げものを全面的に受け入れ、イエスを神の愛で完全に満たしたということを確信することができたと思われます。十字架上で神がイエスを完全に受け入れたからこそ、「復活」が可能になったと弟子たちは信じたのです。そう考えると、十字架と「復活」は、神がイエスを完全に受け入れ、愛で満たしたという同一の出来事の2つの側面だということもできるでしょう。その意味で、カール・ラーナーは「十字架と復活は、同じコインの2つの面だ」と言いました。もし「復活」がなければ、弟子たちはイエスの十字架上の死が、全人類の救いであることに気付かないままでいたかもしれません。もしそうだったら、キリスト教が生まれることもなかったでしょう。
(3)死への勝利
 一コリ15:54-55節でパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という旧約の言葉(イザヤ25:8、ホセア13:14)がイエスの「復活」において実現したと宣言しています。これまで人間は死の恐怖に怯えながら生きたが、イエスの「復活」によって人間はもはや死の恐怖から解放されたということです。イエスの「復活」という出来事によって、わたしたちも必ずイエスと共に「復活」すると神が約束してくださった以上、わたしたちはもはや死を恐れる必要がないのです。
(4)罪の赦し
 「復活」はまた、弟子たちにとって赦しの体験でもありました。弟子たちはイエスが生きて目の前に現れたとき、きっと恐れを感じたはずです。なぜなら、イエスが殺されようとしているときにイエスを見捨てて逃げてしまったからです。自分たちが裏切り、見殺しにした人が目の前に現れたら、きっと誰でもぎょっとするでしょう。しかし、「復活」のイエスが弟子たちに向かって語りかけた第一声は、罵りや怒りの言葉ではなく「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)という平和の挨拶でした。弟子たちが喜んだのは当然でしょう。本来は簡単に赦されるはずのない自分たちの罪を寛大に赦されたことで、弟子たちは自分たちも人々に神の赦しの偉大さを伝える必要があると考えるようになっていきました。その決意が、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)というイエスの言葉にも反映されていると考えられます。弟子たちにとって「復活」のイエスとの出会いは、大いなる赦しの体験に他ならなかったのです。
(5)神の現存
 最後に、イエスの時代から2000年近くが過ぎた現代に生きるわたしたちにとっても身近な「復活」の意味についてお話します。それは、「復活」したイエスが、時間や空間の制約を越えて、いつどこでもわたしたち人間と共にいてくださるということです。このことは、マタイ福音書の次の言葉に最もよく表現されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
 弟子たちは「復活」したイエスが、昇天後もずっと自分たちと一緒にいてくれると感じ、それを信じていました。この信仰は、現代に生きるわたしたちにも引き継がれています。それゆえ、わたしたちはイエスが今現在も、わたしたちと一緒にいてくださる、つらい時や苦しい時でもイエスがわたしたちと一緒に歩んでくださっていると信じることができるのです。これは、またわたしたちが祈りの中で実感することでもあります。わたしたちは祈りの中で、生きたイエスの存在を感じ、イエスと語り合い、イエスから力をいただくことができるからです。
 マザー・テレサはこのことを固く信じていました。それが、マザー・テレサの快活さの秘訣だったとさえわたしは思っています。なぜなら、マザー・テレサは次のように語っているからです。
「イエスを愛する喜びをいつも心に持ち続けましょう。そしてその喜びを、わたしたちが出会うすべての人々と分かち合いましょう。
 そのようにして伝えられる喜びは真実です。なぜなら、わたしたちはキリスト共にいながら幸せでない理由がないからです。
 わたしたちの心の中にいるキリスト、わたしたちが出会う貧しい人々の中にいるキリスト、わたしたちのほほえみ、そしてわたしたちに向けられたほほえみの中にいるキリスト。」
 マザー・テレサは「復活」したキリストが、いつでもどこでもわたしたちと一緒にいてくださると固く信じ、それを感じていました。だから、誰にでも満面の笑顔を向け、心の底から湧きあがる喜びを人々と分かち合うことができたのです。マザー・テレサの奉仕活動を支えていたのは、イエスの「復活」に対する揺るぎない信仰だったということができるでしょう。

《参考文献》
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・岩島忠彦、『イエスとその福音』、教友社、2005年。
・『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』、ドン・ボスコ社、2000年。