バイブル・エッセイ(7) 神のものは神へ


 人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
 エスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ12:13-17) 
 先日の入門講座(7)で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉の意味についていくつかの解釈があるというお話しをしました。今回のバイブル・エッセイでは、わたしなりの解釈をお話ししたいと思います。
 まず「皇帝のものは皇帝に」という部分の意味は明らかだと思います。皇帝の刻印が押された通貨、すなわち皇帝の国の通貨は、皇帝の国の法律に従って皇帝に返すのが当然でしょう。さもなければ、皇帝の国の経済システムが崩壊してしまい、通貨の価値もなくなってしまいます。それでは元も子もありません。重い税であっても、支払うことで初めて通貨に意味が生まれるのです。
 では「神のものは神に」という部分はどう解釈したらいいのでしょうか。万物を創造したとき神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)と言ったと聖書に書かれています。神は人間を、神の似姿として創造されたということです。そうだとすれば、神のかたどりである人間には、神の刻印が押されているということができます。創世記のこの記述を踏まえて考えるなら、イエスが言った「神のもの」とは、神の刻印を押されたわたしたち人間であり、わたしたちの人生だといえるでしょう。「皇帝の刻印が押されている銀貨は皇帝に、そして神の刻印が押されているわたしたちの人生は神に返しなさい」とイエスは言ったのです。わたしたちの人生が神のものだとすれば、「神の国」のおきてに従って神に返すのが当然でしょう。そうしなければ、「神の国」自体が成り立たなくなって、わたしたちの人生に意味がなくなってしまいます。それでは、元も子もありませんね。
 「神の国」のおきては、「神を愛し、人を愛する」ということに尽きると思います。日々の生活の中で、折にふれて神に感謝し、祈りを捧げ、また困っている人や苦しんでいる人のために時間を惜しみなく使うことによって、わたしたちは神のものであるわたしたちの人生を神に返していくことができるでしょう。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉を通して、それが人間の真のあり様だとイエスはわたしたちに教えているのだと思います。
※写真の解説…ホル山に沈む夕日。1997年、中東巡礼中にヨルダンで撮影。