バイブル・エッセイ(10) 「恥の文化」と「罪の文化」


「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)
 
 日本の文化は「恥の文化」で、ヨーロッパの文化は「罪の文化」だと言った人がいます。何かをするときに、日本人は周りの人の目を気にして、人から見られて恥ずかしくないように行動する。それに対してヨーロッパ人は神様のことを考え、神様の前で罪を犯さないように行動するというのです。日本人にも神様を畏れて行動することはあると思うので、この分析が完全に正しいとは思いません。でも、かなり現実をよく見た分析だなという気もします。
 「恥の文化」と「罪の文化」のどちらが優れているかということは、なかなか言えないでしょう。「恥の文化」には、周りの人の気持ちを気遣って、人々と調和を保ちながら生きていくという良さがありますし、「罪の文化」には、自分と神様のことだけを考えて、周りの人の気持ちを考えないで自己主張してしまいがちになるという弱さがあると思います。必ずしも、神様と自分の関係だけを意識して行動する「罪の文化」が優れているということは言えないようです。
 ただ、わたし自身も痛感していることですが、「恥の文化」には一つ大きな弱点があるように思います。いつも周りの人の目を気にして行動するならば、心が休まることがないということです。ささいな他人の言葉にも一喜一憂し、ちょっとでも自分を批判するような言葉を聞いたら、それで自分の存在基盤が脅かされたように感じてしまうというようなことになりかねません。おだてられれば自分を実際以上に高く評価して思い上がり、批判されれば自分を過小評価してみじめな気持になるということにもなるでしょう。それでは疲れてしまいますね。 
 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とイエスは言っています。神様は、わたしたちの心の隅々まで御存じなので、わたしたちがどれだけ外見を整えたとしてもすべてをお見通しなのです。そして、すべてを見通したうえで、わたしたちを大切に愛おしんでくださっているのです。ですから、人からどう見られるかを気にして、外見を整えることにあまりこだわる必要はないでしょう。神様の前で心から安らぎを感じ、神様から受けた愛を人々と分かち合っていくことができれば、「恥の文化」でも「罪の文化」でもない「愛の文化」を作っていくことができるのではないかと思います。
※写真の解説…福岡市・南公園展望台から見た夕焼けと鴉。