バイブル・エッセイ(11) 理不尽なイエス?


 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:21-27)

 最近、とてもおもしろい本を読みました。『イエスはなぜわがままなのか』というタイトルの本です。イエスと言えば寛大で、情け深く、平和を愛する人というイメージがありますが、聖書を細かく読んでいくと「おやっ?」と首をかしげたくなるような箇所にも出会います。たとえば、実がなっていないというので怒ってイチジクの木を枯らしてしまったり、何の罪もない豚を何百頭もガリラヤ湖で溺れ死なせてしまったり。そのような、わたしたちのイメージと合わないイエスについての記述をどう理解すればいいのかということが、この本ではとてもわかりやすく説明されています。わたし自身は、前半を笑い転げながら読み、後半を深くうなずきながら読みました。
 今日取り上げている聖書の箇所でも、イエスの言動は不可解です。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(マタイ10:8)と自分で弟子たちに命じていながら、悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりした人々を「天の国」から追い返すというのはどういうことでしょうか?イエスのわがままなのでしょうか?
 イエスの真意は、後半のたとえ話を読むとなんとなくわかるような気がします。イエスが言いたかったのは、何か目立つような派手なことではなく、まず自分の足元から「神の国」を始めなさいということだったのではないでしょうか。もし外で華々しい預言や奇跡を行っていたとしても、家に帰ってきて家族につらく当たったり、無関心だったりするならば、その人が本当に「神の国」にふさわしいのか疑問です。なぜなら、天の父の御心は、わたしたちが互いを愛し合うことだからです。身の回りの人に無関心で冷淡な人は、もし「神の国」に入れたとしてもきっと居心地が悪いでしょう。「神の国」は、神様の前で自分も他の人たちも同じように神様から愛される世界ですが、彼らは自分のことにしか関心がなく、神様のことや他人のことはどうでもいいからです。逆に、身の回りから愛を始めている人は、すでにこの地上にいながら「神の国」と繋がっていると言えるでしょう。その人は、神様の存在を意識して、神の愛を他の人に向けて実践しているからです。
 イエスのもとにやってきて「神の国」に入れてくれと頼んだ人はどうだったのでしょうか。もし彼らが、外でばかり神様のために働いて、家では家族に無関心というような人たちだったならば、イエスが怒ったのも無理はないと思います。彼らは、そもそも「神の国」にふさわしくない生き方をしていたからです。「神の国」はわたしたちの身近なところから始まる、まず自分の足もとをみなさい、とイエスは言いたかったのではないでしょうか。

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)

※写真の解説…六甲山、桜谷道にて。岩を流れ落ちる小川。