バイブル・エッセイ(246)旅の始まり


旅の始まり
 エスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(マルコ1:29-38)
 荒野で悪魔からの誘惑を退け、故郷のガリラヤに戻ってきたイエスは、カファルナウムの地で初めて本格的な宣教活動を開始します。「神の国」の到来を告げ、人々の病を癒し、悪霊を追い出し始めたのです。カファルナウムでの滞在は数週間だったと思われますが、マルコ福音書はその日々を1日にまとめて描いています。
 カファルナウムでの宣教は大成功だったようです。たくさんの人々が癒しを求めてイエスのもとに集まり、癒された人々はシモンのしゅうとめのようにイエスをもてなしたり、様々な感謝のしるしをイエスのもとに運んだりしたことでしょう。
 しかし、そんな充実した幸せな日々の中で、ある朝イエスは祈るために人里離れた所へ出て行きます。なぜでしょうか。きっと、イエスの心に、このままカファルナウムで活動を続けていいのだろうかという疑問が浮かんできたのだろうと思います。カファルナウムでの生活はすばらしいが、果たしてこのままでいいのだろうか。自分は、何のために召し出されたのだろうかということです。
 祈った結果、与えられた答えは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」ということでした。なぜなら、イエスはそのために出て来たからです。どこかに貧しい人、孤独な人、神の愛を求めて苦しんでいる人がいる限り、その人たちのもとへ福音を届けるために旅を続ける。そのためにイエスは出て来たのです。祈りの中で自分の召命の原点に立ち戻り、居心地のいい場所に留まりつづける誘惑を断ち切ったと言っていいでしょう。
 教会での活動や交わりがうまくいっているとき、自分の仕事や家庭生活に満足しているとき、わたしたちもイエスと同じように自分に問いかけてみる必要があると思います。「今の生活はすばらしいけれども、果たしてこれでいいのだろうか。自分は、何のために召し出されたのだろうか」ということです。わたしたちの近くに、病気で苦しんでいる人、孤独の中で助けを求めている人、差別されみんなから嫌われている人、そんな人はいないでしょうか。もしそんな人がいれば、その人たちの方に向かってわたしたちは新しい一歩を踏み出すべきでしょう。なぜなら、わたしたちはそのためにこそ召し出されたからです。エスの後について、わたしたちも福音宣教の旅に出発しましょう。
※写真の解説…2010年2月、新宿御苑にて。