フォト・エッセイ(15) 「神の国」への扉


 アジサイを見てきた。
 前日までの天気予報に反して、今日は雨が降らなかった。雨の休日を予定していたわたしは、朝その事実に気がつくと大慌てで地図を広げ、ハイキングのプランを考えた。今日のテーマはいずれにしてもアジサイだから、アジサイがたくさん見られるコースがいい。そこでわたしは、青谷橋から青谷道、摩耶史跡公園を経て摩耶山に登り、そこから摩耶自然観察園、桜谷道、徳川道経由で森林植物園に下りることにした。このコースならば摩耶自然観察園と森林植物園の2か所でたくさんのアジサイを見ることができるからだ。
 摩耶山アジサイは、まだ5分咲き程度だった。やはり下よりも1ヵ月くらい季節が遅いらしい。桜やつつじのときもそうだった。自然観察園のアジサイ池周辺はそれなりにきれいだったが、あと1週間くらいできっと満開になるだろうなと思いながら通り過ぎた。桜谷道や徳川道のいいところは、道に沿って川が流れているところだ。桜谷道ではまだ細い流れだが、徳川道にまで下ってくるとかなり立派な渓流になる。川のせせらぎと鳥たちの声にうっとりしながら、山道を歩いて行った。
 森林植物園に入るとアジサイ一色だった。なにしろ敷地の中に50,000株ものアジサイが植えられているという場所だ。思わず「うわっ、なんだこれは」とつぶやくくらいすごい量のアジサイだった。夢中で歩きまわりながら、写真を撮った。
 このあいだある信者さんとも話したのだが、自然の美しさは「神の国」への扉のようなものではないかと思う。本当に美しいものは、人間にこの地上を越えた世界の存在を思い出させるようだ。それは自然に限らない。いや、むしろこの地上を越えた世界を思い出させるようなものを、人間は美しいと感じるのかもしれない。音楽、美術、演劇など、人間が作り出すものでも同じだろう。地上を越えた、表現しようもないほど美しい世界、わたしたちの信仰で「神の国」と呼ばれるその場所を表現しようとして、人間はさまざまな創作活動を行うのではないだろうか。意識的にせよ、無意識的にせよ、人間はその世界の力に惹きつけられて楽器を持ち、絵筆を取り、舞台に立ち、カメラを持つのではないかと思う。「神の国」から地上にやって来たわたしたち人間には、どこかに「神の国」の記憶が残っており、「神の国」への郷愁がときにわたしたちを創作活動へと駆り立てるのかもしれない。
 「神の国」がわたしたちの故郷であり、本来いるべき場所だとすれば、それらの創作活動が生み出す美しさは人間が故郷に帰るための道であり、扉だと言えるだろう。今の日本で起こるさまざまな事件を見ていると、現代人は故郷への道を忘れてしまったのではないかという気がする。自分たちがどこから来て、どこに帰るのかを忘れてしまい、この狭い人間世界だけを見て迷い、苦しんでいるようだ。このような時代だからこそ、わたしたちは自然や芸術作品の中に「神の国」への扉を探し、また下手でも自分自身で創作活動をして、この世界のあちこちに「神の国」への扉を開いていく必要があるのではないか、と帰りの電車の中でそんなことを思った。




※写真の解説…いずれも森林植物園で撮影したアジサイ。最初の写真は、あまり人が訪れない西洋アジサイのコーナーで撮影した。