バイブル・エッセイ(12) 教会の土台


 エスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16:13-19)

 イエスはペトロを岩と呼びましたが、果たしてペトロは教会の土台になれるほど大きくて立派な岩だったのでしょうか。わたしたちが聖書の中で知っているペトロは、おっちょこちょいなガリラヤの漁師さんです。そして、イエスを見殺しにするという大きな罪を犯した人でもあります。なぜそのような人が、教会の土台になれたのでしょうか。
 こう考えたらどうかと思います。教会を建てるときにはまず基礎工事をしますね。地面を深く掘って、それからそこにコンクリートを流し込むというのが現代の基礎工事です。イエスを裏切ったことによって自分がまったく無力な罪人であることを深く悟ったとき、ペトロの心にはきっと大きくて深い穴が掘られただろうと思います。イエスのためなら死んでもいいとまで言いながら、実際にはイエスを見殺しにしてしまった自分を振り返って、自分の中に何も頼りになるようなものがないことに気づいたからです。ペトロの心には何も残っていませんでした。もし自分には能力があるとか、自分自身の力で正しいことができる人間だとか、そういう思いがペトロの中に少しでも残っていれば、それは穴をふさぐ泥や砂利のようなものになったでしょう。ですが、ペトロの心には、そのようなものは残っていなかっただろうと思います。イエスを裏切るという罪を犯したペトロの心には、ただ大きくて深い穴があいていたのです。
 イエスは、復活してペトロの前に現れたときに、この大きくて深い穴に神の愛をたっぷりと注ぎ込みました。ゆるされるはずもないほど大きな罪であったペトロの罪を、イエスは快くゆるし、ペトロの心を愛で満たしてくださったのです。この愛が、教会の土台になるコンクリートだろうとわたしは思います。ペトロの心には、愛のコンクリートが一杯に注がれました。こうしてペトロの心には、かつてないほど大きく、深い基礎が築かれたのです。この立派な基礎の上に、イエスは教会を建てたのでしょう。
 イエスがペトロを選んだのは、ペトロに力があったからではないと思います。むしろ、まったく無力であったがゆえに自分が罪人であることを実感し、神の愛だけに希望を置くことができる人だったからこそ、イエスはペトロを選んだのでしょう。わたしたちもペトロのように、自らの弱さを知る恵みを願いたいと思います。わたしたちが自分自身の弱さ、無力さ、罪深さをとことん自覚したとき、神様はわたしたちの心に愛を豊かに注ぎ込んでくださるでしょう。そのときにこそ、わたしたちはペトロのように立派な教会の土台になっていくことができるだろうと思います。
※写真の解説…ガリラヤ湖畔・「ペトロの首位権の教会」に立つイエスとペトロの像。イエスに教会の土台と宣言されたペトロが、のけぞって驚いている場面が再現されている。