バイブル・エッセイ(240)来なさい、そうすれば分かる


来なさい、そうすれば分かる
 ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1:35-42)
 二人の弟子は、洗礼者ヨハネがイエスを「神の子羊」と呼んだとき、きっとその意味が分からなかったでしょう。戸惑いながらも、その言葉の意味を確かめるため、師が「神の子羊」と呼んだ人がいったい誰なのか知るために、弟子たちはイエスの後について歩き始めます。そんな彼らにイエスは「来なさい。そうすれば分かる」と語りかけました。単に、住んでいるところがどこかが分かるというだけでなく、「わたしが誰かがわかる」という意味も込められた言葉のように感じられます。実際イエスの住まいに行ってそこに留まった弟子たちは、イエスが誰であるかをはっきり悟り、「わたしはメシアに出会った」と人々に語り始めます。
 この弟子たちの姿は、わたしたちとも重なるかもしれません。司祭や友人からイエスは「神の子」、「救い主」と聞かされてはいるけれど、それが一体どういう意味なのか分からないまま戸惑っているわたしたちに、イエスは「来なさい、そうすれば分かる」と語りかけておられます。考えていてもわからないけれど、イエスの住まいに行き、イエスと共にとどまれば全てがわかるのです。では、イエスは一体どこに住んでおられるのでしょうか。
 エスの住まい、それは私たちの心に他なりません。イエスはわたしたちの心の一番奥深く、魂の深みに住み、そこから私たちに「来なさい。そうすれば分かる」と呼びかけておられるのです。執着や心配を一つひとつ神の手に委ねながら、安らぎに満たされた心の深みへと降りてゆきましょう。怒りや憎しみ、悲しみや絶望などによってかき乱された心の表面をしばらく離れ、心の深みへと降り立ちましょう。イエスは、そこでわたしたちを待っておられます。イエスと共に留まり、その言葉や行いを通して神の愛に触れたなら、わたしたちはイエスが誰であるかはっきり知ることができるでしょう。
 別の言葉でいえば、それは聖書の御言葉を心の深みで受け止めるということです。エスの言葉を記した聖書は、それ自体としてイエスの住まいと言えるでしょう。聖書の言葉を心の深みで受け止めるとき、わたしたちの心はイエスが住んでおられる聖書の世界へと深く入り込んでゆくのです。御言葉の世界に深く入り込み、御言葉と共にとどまるならば、わたしたちはイエスが誰であるかはっきりと悟るでしょう。
 心の深みでイエスと出会った人たちが集うとき、教会自体がイエスの住まいになります。わたしたち自身の中に、そしてわたしたちの間に結ばれた愛の絆の中に、イエスが住んでおられるからです。建物ではなく、そのような愛の交わりこそが教会、わたしたちこそが教会なのです。
 エスの住まいを訪れ、そこから戻ってきたとき、わたしたちはまだ人生の旅路に迷っている人たちに向かってはっきりと「わたしは、メシアに出会った」と宣言することができるでしょう。そして、「来なさい。そうすれば分かる」と言ってその人たちをイエスの住む教会へと招くことができるはずです。わたしたち一人ひとりが心の深みでイエスと出会い、深い確信を持ってそう語れるようになることを神に願いましょう。
※写真の解説…摩耶山、青谷道にて。