フォト・エッセイ(22) 生命の水


 昨日は六甲教会の若者たちと一緒に山歩きをしてきた。暑さが厳しいので山登りはせず、ケーブルで上まで上がって涼しい山上を歩いた。まず高山植物園に行き、そこから穂高湖経由で徳川道に入って森林植物園に出るというコースだった。
 途中で道を間違えて林道に入り込んでしまうという小さなハプニングはあったものの、全体としてすばらしい1日だったと思う。高山植物園では、満開のニッコウキスゲやたくさんの小さくて可憐な花々がわたしたち迎えてくれた。穂高湖で青空と白い雲、そして澄んだ水面を眺めながら食べたお弁当は最高においしかった。汗だくになってたどりついた森林植物園で食べたソフトクリームの味も忘れられない。帰りに六甲道の焼き鳥屋さんで飲んだ生ピールは、この夏一番のうまさだった。
 そんな具合でなにしろ素晴らしい1日だったのだが、その中でも特に印象に残ったのは、汗だくで山道を歩いている途中で足を浸した渓流の水の冷たさだ。最初はどうしようかとためらっていたのだが、思い切って靴と靴下を脱ぎ水に足を浸した途端、あまりの気持ちよさに思わず「うわーっ」と声を出してしまった。肌を刺すような水の冷たさが、体にこもった熱を一気に取り去ってくれた。「気分爽快」とは、ああいう瞬間のことを言うのだろう。べとつく汗の不快さも、のどの渇きも、体にたまった疲れも、そして心の底にあったいくつかのわだかまりさえも、一気に消えたようだった。わたしに続いて若者たちもみな水に足を浸し始めた。小魚がたくさんいる渓流で、若者たちの足もとにまで小魚が群れ寄ってきた。
 「この水の流れを教会まで持って帰りたいなあ」と真剣に思った。もちろん不可能なことだが、この気持ちよさを味わえるならば毎日の仕事もきっと楽になるだろうと思えた。教会に集まる人たちの心も、この水で癒されるだろう。そんなことを考えているうちにふと思いだしたのは、イエスの語った「生命の水」のことだ。あるときイエスサマリア人の女性に、自分こそが「生命の水」であり、その水を飲むものは決して乾くことがないと言った。わたしたちがもし「生命の水」に触れることができるならば、その水はきっと真夏の暑さの中で出会った冷たい水のように人の渇きと疲れを一瞬のうちに癒してくれるのではないだろうか。
 この渓流の流れよりはるかに豊かな水量で、「生命の水」はイエスと出会ったわたしたちの心の中を流れている。わたしたちがその存在に気づき、心を開きさえすれば、その水はわたしたちの心にいつでも流れ込んでくるはずだ。水に足を浸した瞬間に味わった気持のよさは、祈りの中で神の恵みが心に流れ込んだときに感じる気持ちのよさと、どこか似ているような気がした。







※写真の解説…1枚目は徳川道沿いの渓流。2枚目は穂高湖。3枚目は高山植物園のニッコウキスゲ。4枚目は森林植物園で見たメタセコイアの葉。