バイブル・エッセイ(18) パンを裂く

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 エスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイ14:15-21)
 イエス様が賛美の祈りを捧げ、パンを裂く場面が読まれました。最後の晩餐の席でイエスがパンを裂いたこと、そして司祭がミサ中にパンを裂くことも連想させる個所です。この場面を祈っていて、ふとわたしはわたし自身の心がパンで、捧げられたそのパンをイエス様が裂いておられるとしたらどうだろうかと想像しました。もしわたしの心がパンだとしたら、それはどんなパンなのでしょう。イエスはどうやってそれを裂いておられるのでしょうか。
 わたしの心はきっと、古くなったフランスパンのように堅い殻でおおわれたパンだろうなと思います。プライドや虚栄心、偏見、傲慢などでわたしの心の表面は厚くおおわれているような気がします。こんなパンを食べるのはたいへんですね。中には神様からいただいた優しさや愛という柔らかなパンが隠されているのですが、外側は堅い殻でおおわれていますから、まずその殻を破らなければいけません。
 では、イエス様はどうやってその堅い殻を破るのでしょうか。ときにイエス様は、人からの悪口、夢の挫折、仕事での失敗などの厳しい試練をナイフのように使って、わたしたちの心の殻を破られるようです。すべての試練は、もしかするとそのためにあるのかもしれません。厳しい試練でプライドや虚栄心などの殻を破り、その中に隠されている愛のパンを人々が食べられるようにしてくださるのです。また別のときには、豊かな恵みの水でわたしたちの心の殻を柔らかくして、それからパンを裂かれることもあるようです。神様の優しさや憐れみを実感するとき、わたしたちの心の殻は少し柔らかくなるように思います。そのときにイエス様が来てわたしたちの心を裂き、愛のパンを人々が食べられるようにしてくださるのです。
 日々の生活の中で、わたしたちの心のパンをイエス様にお捧げしたいものだと思います。わたしたちが自分の心を捧げものとして全て差し出すならば、イエス様は多くの人々がそれを食べられるように裂いてくださるでしょう。そのとき、わたしたちは裂かれた心、殻のないやわらかな愛のパンを人々に分かち合うことができるようになるはずです。
※写真の解説…広島・平和公園夾竹桃