バイブル・エッセイ(21) 「生きている神の子」


 エスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:13-19)

 「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの答えを聞いたイエスは、このペトロの信仰の上に教会を建てることをお決めになりました。ペトロの答えのどこが他の人々の答えと違ったのでしょうか。この答えには、ペトロのどのような信仰が込められているのでしょうか。
 人々はイエスを洗礼者ヨハネだとか、エリヤだ、エレミヤだと呼んでいました。彼らはすでに死んだ人たちです。それに対してペトロは、「生きている」という言葉を使いました。ペトロにとってイエスは、共に食べ、共に笑い、共に悲しみ、共に喜ぶ、まさに生きている存在だったのです。さらにペトロはイエスを「神の子」と呼びました。預言者たちはどんなに立派な人であったとしてもただの人間ですが、イエスは違う。イエスは、人間を越えて神の領域に属する方だとペトロは感じていたのだと思います。イエスと一緒にいると、どこからともなく不思議な喜びや力があふれてきて、自分がこれまでとはまったく違う人間のようになってしまう。どう考えても不思議だ。信じがたいことだが、この方は神御自身に違いない。そのような思いをペトロは、「神の子」という言葉で表現したのでしょう。
 「生ける神の子」というペトロの信仰告白は、神が今わたしたちと共に生きおられるという確信が込められています。これこそが、教会の土台となる根源的な信仰なのだと思います。イエスは生きている神だということこそ、まさにキリスト教信仰の根幹であり、それを初めて明確に表現したペトロの上にイエスは教会をお建てになったのです。わたしたち自身は、イエスを何だと思っているでしょうか。わたしたち自身は、ペトロのような確信をもって、イエスを「生きている神の子」と呼ぶことができるでしょうか。
 ペトロの時代と違って、わたしたちは人間の肉体をもって生きておられるイエスに会うことができません。しかし、それでもイエスがわたしたちにとって「生きている神の子」、共に食べ、共に笑い、共に泣き、共に笑ってくださる神の子であることに変わりはないと思います。イエスは、いつでもわたしたちのすぐ近くにおられ、わたしたちに語りかけてくださっているからです。
 わたし自身の体験では、こういうことがありました。神学生の頃、わたしは毎週ホームレスの人たちにおにぎりを配る活動に参加していました。いつも喜んで参加していたわけではなく、惰性で参加していたこともあります。「なんで貴重な時間をこんなことに使わなければならないのだろう」、「早く帰りたいな」、「おにぎりなんか配っても意味がない」と思いながら参加していたことさえあります。その日も、「ああ早く帰りたいな」と思いながら、ささくれだった気持でおにぎりを配っていました。もうじき配り終わるというくらいのときに、地下鉄の駅で1人のおじさんにおにぎりを渡しました。おじさんは、黙ったままおにぎりを受け取りました。ですが次の瞬間、思いがけないことが起こりました。おじさんが、穏やかで深みのある満面の笑みを浮かべながらわたしを見上げたのです。めったに見ることができないほど優しくて、静かで、魅力的な笑顔でした。その笑顔を見たとき、わたしの心の深いところで大きな変化が起こりました。これまでのささくれ立っていた気持ち、重苦しさ、苛だちなどが一瞬のうちに消えてしまい、心の底から不思議な喜びが湧き上がってきたのです。まったく劇的な変化でした。暗闇の中に光がさしたような、乾いた荒野に雨が降ったような、そんな変化がわたしの心に起こったのです。
 帰りの電車の中でも、わたしの心は喜びに満たされていました。窓の外の景色を見ながらおじさんの笑顔を思い出していた時、ふとわたしの中でその笑顔がイエスの笑顔とぴったり重なりました。そして、おじさんの笑顔を通して、イエスが荒んだわたしの心に「疲れてるんだね。わかってるよ」と言ってくれたのだと気づいたのです。そのとき、わたしの心の中の喜びが、より深く温かいものに変わったのを感じました。
 このようなイエスとの出会いは、よく見れば、よく耳を傾ければ、わたしたちの身の周りのいたるところにあるだろうと思います。家族や友人の笑顔を通して、さりげない優しい仕草を通して、ちょっとしたうれしい出来事を通して、自然の美しさや雄大さを通して、イエスはわたしたちにいつでも話しかけてくださっています。その声を聞き逃さないようにしたいものです。イエスはいつでもわたしたちの隣にいて、「大丈夫だよ」、「いつもぼくがそばにいるよ」、「ぼくはきみが大好きだよ」と語りかけてくださっているのです。
 この語りかけに気づき、イエスと出会うことができるならば、わたしたちもペトロと同じようにイエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と確信を持って言うことができるでしょう。その信仰を人々と分かち合うとき、わたしたちの上に教会が建てられるのだと思います。まずこのミサの中で、そして日々の生活の中で、「生きてるいる神の子」イエスと出会うことができるように祈りたいものです。
※写真の解説…散歩中に見つけた花。