フォト・エッセイ(32) 「かなの家」の心


 六甲教会の若者たちと一緒に、静岡市の足久保にある「ラルシュ・かなの家」に行ってきた。昨年の8月から、ちょうど1年ぶりの訪問だった。8年前にイエズス会の哲学生として最初に行ってから、今回でもう10回目くらいの訪問になるのではないかと思う。
 「かなの家」に行くと、仲間との出会いを通して、そして足久保の美しい自然を通して心が解放されていくのを感じる。着いて仲間の顔を見た瞬間に心を堅く縛っていた鎖のようなものが1本ずつ切れ始め、散歩をしているときにさらに心が軽くなり、仲間と作業をしているうちにもう過去に起こったことなどはどうでもよくなってしまう。そして、何日か滞在しているうちにはすっかり自由ですがすがしい気持ちになっている。自分で自分を縛っていた鎖が解けて、心の底に閉じ込められていた「生きる力」が甦ってくるようだ。そんな不思議な力が「かなの家」にはある。
 日常生活の中で、わたしは自分の心をいろいろなもので縛っているように感じる。信者さんたちのご機嫌を損ねてはいけないとか、修道会の中で除け者にされないようにしなければとか、人から評価されるような業績を上げなければとか、いろいろなことを考えて自分にストレスを与えているのだ。どうも、ありのままの自分ではだめで、もっと優れていなければならないと思い込んでいるふしがある。子どもの頃から競争社会の中で生きているうちに、優れていなければ誰からも認められない、生きている価値がないという思い込みがどこか心の深い部分に刷り込まれてしまったようだ。だから、なんとかして自分より優れた自分を演じようとしたり、仮面をかぶって偽りの自分を人に見せようとしたりしてしまうのだと思う。
 だが、「かなの家」に行くと、そんな思い込みはすぐに打ち消されてしまう。重い知的障害を負った仲間たちが力を寄せ合って精一杯に生きている姿を見れば、社会的に評価されようがされまいが、生きていることにはそれ自体で意味があるということがはっきり分かるからだ。かっこをつけて優れた自分を演じる必要などなにもない。仮面をかぶる必要もない。ありのままでいい。弱さや醜さも含めて自分のありのままを認めながら精一杯に生きていく、そのことだけで人生には十分な価値があるのだということを、仲間たちは無言のうちに教えてくれる。
 演技も仮面もなしに生きている仲間たちにとっては、目の前にいるその人だけが大切だ。その人が社会的にどのような地位を持っているのか、どんな能力があるのかなどということは一切関係がない。ただ自分たちに関心を持ってくれる人が目の前にいるということだけが大切なのだ。だから、仲間たちは「かなの家」を訪れる人を誰でも無条件に歓迎する。着いたその日から、まるで故郷に帰ってきた家族を迎えるかのように温かく迎え入れてくれるのだ。言葉には出さないが、彼らの瞳は静かに「よく帰ってきたね、重荷を下ろしてここでゆっくりお休み」と語っているようだ。
 そんな彼らを見ていると、わたしは切ないほどの愛おしさに駆られる。社会の中であまり役に立たなかったとしても、優れた能力がなかったとしても、彼らはこの地上で限りなく大切な存在だと思う。彼らが生きていること自体から、神の愛が無限にあふれ出しているような気がするからだ。彼らは、神の愛の目に見えるしるしなのだ。彼らに接することで、わたしたちは自分で自分を縛っている鎖から解き放たれ、神の愛に満たされて、「生きる力」を取り戻していくことができる。そんな気がする。
 今回、一緒に行った六甲教会の若者たちを見ていても同じ事を感じる。時に生きることに躓き、自分には価値がないと思いこんでしまうことさえある彼らだが、わたしの目から見れば限りなく尊く、愛おしく、大切な存在だ。本人たちがそのことに気いていないならば、それはとても悲しいことだと思う。
 1人ひとりの人生には、生きているというだけで十分な意味と価値がある。だから、一人ひとりを大切にし、共に支えあいながら生きていく必要がある。「かなの家」の心は、それに尽きるのではないかという気がする。




※写真の解説…1枚目、「かなの家」の近くにある池。2枚目、池の周りを散歩する「かなの家」の仲間と六甲教会の若者たち。3枚目、田んぼの草取りを手伝う六甲教会の若者たち。