バイブル・エッセイ(132)神から出たもの


 民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。
イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(使徒5:34-39)

 わたしたちは何かをするときに、「どうしたらうまくいくだろう」、「もし失敗したらどうしよう」、「みんなはどう考えるだろう」などといろいろなことを思って心を悩ませますが、ガマリエルの言うとおり、もし「その計画や行動が人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば滅びることはない」でしょう。ですからわたしたちは何も心配せず、ただ神の御旨に耳を傾け、神の御旨のままに行えばいいのです。
 ですが、実際に何かをするときに神の御旨を聞き分けるのはなかなか難しいですね。どうしても、自分の思いに引きずられてしまいがちです。そんなとき、わたしは次のように自分に尋ねてみることにしています。「自分がしようとしていることは、わたしの目の前にいる人、わたしに委ねられた人々の霊的渇きを癒すものだろうか。」
 もし答えが「いいえ」ならば、その行いの動機が主に自分自身のプライドを守ったり、保身を図ったりするためのものであるならば、それは神の御旨にかなうことではないでしょう。そのときは、自分が救いをもたらすべき人々の思いと共感しながら、もう一度ゆっくり考え直すべきです。彼らの心が真に欲しているものは何か、どうしたら彼らの霊的渇きを癒せるのか、そう尋ねているうちにきっと答えは見つかるでしょう。
 個人的に何かをする場合にも同じことです。誰にも迷惑がかからなかったとしても、「自分がしようとしていることは、わたしの霊的渇きを癒すものだろうか」と尋ねてみる必要があるでしょう。どんなときにも「神から出たもの」を行い、滅びることのない永遠の命のうちに生きてゆきたいものです。 
※写真の解説…六甲山の新緑。