フォト・エッセイ(48) 朝の登山


 先週の木曜日、青谷にある女子修道会で御ミサを立てた後、青谷道から摩耶山に登った。お休みの日だったのだが別に何をするという予定もなかったので、とりあえず摩耶山に登ってみようかというようなつもりで登り始めた。山の上の方を見上げると、ところどころ色づいている木々もあるようだったから、紅葉の様子を確かめてみようという気持ちもあった。
 山を登りながら改めて思ったのは、ここのところぼくは周りの人の意見に振り回されすぎだということだった。御ミサについて色々なことをいう人がいるし、ぼくとしても多くの人の意見を聞いて少しでもよい御ミサにしていこうという気持ちもあったので、いろいろな人の意見を聞いてまわった。それがよくもあり、悪くもあったような気がする。欠点に気づかせてもらったのはいいのだが、それがすぐによくならないうよな欠点であった場合にわたしの中に焦りが生まれてきたことは否定できない。わたしの心のどこかに「本当はこんなはずではないのに」という気持ちがあり、それが焦りを生んだのだと思う。
 まあ、だがしかし落ち着いて考えれば叙階1ヵ月あまりではこの程度だという見方もできる。問題は、自分としてそれが受け入れられるかどうかだ。「本当はこんなはずではないのに」という気もちがあれば、焦りばかりが先行して悪循環に陥りかねない。自分はもっとできるはずだ、自分は本当はもっと優れているという驕りが背後にあるから「本当はこんなはずでは」という気もちが生まれてくるので、初めからこんなものだと笑って受け入れられれば何の焦りも生まれてこないはずだ。自分のありのままを受け入れて、少しずつ改善できるところを改善していけばいい。
 山から下りてきて、三ノ宮で映画を観た。『おくりびと』という、遺体を棺に納めることを専門にしている人を主人公にした映画だ。先日の若手司祭の会で話題になり、とてもいい映画だということだったので観にいくことにした。観ていてわたしが一番感動したのは、初め主人公の仕事を嫌悪していた主人公の妻がの心が少しずつ変えられていく場面の描写だ。妻は、はじめ死体を触るなんて汚らわしいという意識しか持っていなかった。しかし、夫が身近な人たちの御遺体を丁寧に愛情をこめて納棺する様子を見ているうちに、夫がしていることがどれほど大切なことなのかに気づいていく。
 御遺体は、他人が見れば汚らわしい物体にしか過ぎないかもしれないが、その御遺体の近親者から見れば限りなく大切な愛する人の体だ。どれほど泣き叫んでも決して目覚めることのない御遺体に向かって、近親者たちは後悔の涙を流したり、別離の悲しみに胸をかきむしったりする。客観的に見た御遺体は生命を持たない物体にすぎないのだが、近親者たちにとっては愛する人の思い出そのものであり、限りなく大切なものなのだ。夫が、近親者たちのその気持ちに寄り添うかのようにして愛情をこめて丁寧に丁寧に御遺体を納棺していくのを見て、妻の心は少しずつ変えられていく。最後には他人に向かって、「夫は納棺師なんです」と自信を持って言うことができるまでになるのだ。
 所作の美しさということももちろん必要なのだが、一番大切なのは自分がしていることがどれだけ大切なことなのかを自覚し、その思いが自然と所作に反映されていくということなのだろう。御ミサについていうならば、わたしが本当に御聖体を大切に思っていれば、それが自然と所作に反映されていくということだ。言葉に出さなくても、その思いは人々に伝わっていくはずだ。表面的な失敗や成功に一喜一憂するのではなく、何よりもまずその思いを大切にしていくことだなと映画を観ながら思った。御聖体よりも自分自身を愛していれば、どんなに頑張ってもいい御ミサになるはずがない。逆に御聖体を何よりも大切に思っていれば、その思いは自然に人々に伝わっていくはずだ。そのことを忘れないようにしたいと思う。







※写真の解説…1枚目、青谷道から見た神戸の街。2枚目、摩耶山天上寺の旧山門。3枚目、色づき始めたモミジ。4枚目、摩耶山山頂からの眺め。