バイブル・エッセイ(134)イエスの呼ぶ声

★このエッセイは4月25日、カトリック神戸中央教会の「子どもたちのためのミサ」で行った説教に基づいています。

 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10:27-30)
 羊たちは、どうして飼い主の声を間違わずに聞き分けるのでしょう。それは、飼い主の声についていかなければ生きていけないと知っているからだと思います。もし間違った声についていけば水を飲めずに死んでしまうとわかっているので、羊たちは必死に飼い主の声に耳を傾けるのです。わたしたちも、この羊たちのように真剣に飼い主、イエスの声に耳を傾けたいですね。
 イエスの呼び声に従っていけば、そこには必ず「命の水」が泉のように湧き出ています。例えばみなさんの家のどこかに置かれている聖書、イエスはそこから皆さんに呼びかけています。一日に一度でいいから、聖書を開いて読んでみてください。「イエス様は困っている人たちにこんなに優しくしてくれたんだから、ぼくにも優しくしてくれるかもしれない」、「こんな悪いことをした弟子たちもゆるしてくれたんだから、わたしもゆるしてもらえるかもしれない」、そんなことを思いながら聖書を読んでいるうちに、皆さんの心の底の方から喜びや力、勇気が湧き上がってくるはずです。それこそが「命の水」の泉なのです。
 イエスはほかにも十字架や御像、御絵などさまざまなところからわたしたちを呼び、そこに泉を湧きあがらせてくださいますが、中でも一番大きくて豊かな泉はミサだと思います。これから皆さんの前に高く掲げられるご聖体から、「命の水」がまるで洪水のようにあふれだすからです。その水はここにいる全員の心を満たすだけではおさまらず、あふれだして聖堂いっぱいに満ちていきます。
 今日は「世界召命祈願の日」ですが、心をいっぱいに広げてこの水を受け止め、この水に生かされて生きることがわたしたちの召命の出発点になるでしょう。心を満たした「命の水」は、わたしたちの心から世界へとあふれだしていきます。ですから、「命の水」に心を開いていれば、わたしたち自身も周りの人にとって「命の水」の泉になることができるのです。「命の水」に満たされて生き、わたしたち自身がこの世界のあちこちで「命の水」の泉になっていくこと、それこそがわたしたちの召命だと思います。
※写真の解説…新緑に彩られた神戸、北野坂