やぎぃの日記(11) 「ガーナ・アフリカ・わたしたち」②


 質疑応答のときに、壮年の男性たちから「援助」という言葉づかいについて疑問が寄せられた。わたしたちはアフリカや途上国に対して「援助」という言葉を当然のように使っているが、その言葉の背景には貧しい国を下に見るような意識があるのではないかというのだ。たとえば、彼らが子どものころ日本はまだ貧しく、今のようなゲームもおもちゃもなかった。だが、石や草木など身の回りにあるものからおもちゃや遊びを作り出し、心から楽しんでいた。もしそれを見た豊かな国の人が「日本の子どもたちはかわいそうだから助けてやらなければ」と思ったとしたらまったく的外れなことだ。もし今、豊かになったわたしたちが物質的に貧しい人たちを下に見て「かわいそうだから助けてやろう」と思うならば、それと同じことなのではないか、という。
 この指摘は、確かに一面の真理を突いていると思う。人間にとって一番大切なのは、結局のところその人が幸せかどうかであって、物質的に恵まれているかどうかはそれと直接関係をもたないからだ。物質的に恵まれていても自分は不幸だと思っているひとはたくさんいるし、逆に物質的にまずしいひとでも心からの幸せを感じているひとはたくさんいるだろう。かつての日本の子どもたちのように。物質的に貧しいがゆえに学校に行けないとか、病院に行けないというようなことがあれば、そのような状況はなくさなければならない。だが、単に物質的に貧しいという理由だけで「かわいそう」と思い、自分たちはあんなでなくてよかったと思うならば、それはまったく一方的なものの見方だと思う。
 物質的に豊かな中にあっても幸せを感じられない人は、物質的に貧しい中でも幸せに生きている人たちからたくさんのことを学ぶことができるだろう。だから、豊かな国に生きる人が「貧しい国の人はかわいそう。だから援助してあげよう」と単純に考えるならば、それはどこか間違っているように感じる。お互いの生き方を尊重し、物質的なことや表面的なことだけで生活の優劣を決めるような態度は変えなければと、質疑応答を聞きながら改めて思った。
 似たようなことが、世代間の対話についても言えると思う。たとえば、年配の人の間から、ときどき「今どきの若者たちはケータイやインターネットを使っているから、人間関係を大切にしなくなった」というような声が聞こえることがある。これは「今どきの若者たち」に言わせればまったく心外なことで、今どきケータイやネットを使わない人こそ人間関係を軽視しているという反論が当然あがるだろう。それに対して、年配の人たちは「いやそのまったく逆で、頻繁に連絡を取り合わないからこそ人間関係は深まるのだ」と反論するかもしれない。結局のところ水かけ論だ。本当に大切なのは、物質的なことではなく、その人の心のありようだろう。人間関係について言えば、その人が自分の周りにいる一人ひとりの人をどれだけ大切にしているかこそが最も重要なのだと思う。「若い連中は」とか「年寄りは」というような形で人間をひとくくりにするような態度には、一人ひとりを大切にする姿勢がそもそも欠けているようだ。
 アフリカとわたしたちの関係を考えるときにも、世代間の対話を考えるときにも、大切なのは表面的なことで相手を判断せず、互いの立場を尊重しながら話し合い、互いに理解し合うことなのだろう。
※写真の解説…青木哲生氏を囲んでの質疑応答。