バイブル・エッセイ(32) イエス様の兄弟

 このエッセイは、11月23日、「王であるキリスト」の祭日に行われた子どものためのミサでの説教に基づいています。
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)

 イエス様が人々を裁く場面が読まれました。今日は「王であるキリスト」の祭日ですが、イエス様はこの世の終わりにやってきて王座に着き、そこからわたしたち人間を裁くというのです。右側に分けられたら天国に行けますが、左側に分けられたら地獄に落とされてしまうかもしれません。なんだか怖いイエス様ですね。
 ですが、イエス様の言うことをよく聞くと、イエス様はちっとも怖くないということが分かります。イエス様は、裁きの理由を次のように表現しているからです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
 最も小さい者というのは、飢えや乾きで苦しんでいる貧しい人や、知らない場所で誰も頼れる人がいなくて困っている旅人、病気の人、刑務所に入れられている人などのことです。このような人たちは世の中の人たちから見下され、たいしたことのない人、価値の小さい人と思われてしまいがちです。人々から馬鹿にされているうちに本人たちも、自分は役立たずだ、つまらない人間だと思い込んでいるかもしれません。
 イエス様はそのような人たちを自分の兄弟と呼びます。飢えや病い、孤独などに苦しんでいる人たちは、みんなイエス様の兄弟だというのです。立派な服や大きな家がなくても、みんな尊い神様の子どもたちであり、自分の兄弟だというのです。栄光に輝く王様であるイエス様から兄弟だと言われたら、貧しい人たちや苦しんでいる人たちはどんなにうれしいことでしょう。イエス様は、ほんとうに優しい方だと思いませんか。
 わたしたちの身の回りにも、病気や孤独で苦しんでいる人がたくさんいます。その人たちが、イエス様の兄弟であり、イエス様ご自身なんだということをこのミサの中でしっかり胸に刻みましょう。そうすれば、きっとその人たちのために何かをしたくなるはずです。
※写真の解説…東福寺の紅葉。