フォト・エッセイ(77) 冬の京都①〜金閣寺から妙心寺へ〜


 道元の映画に感動したこともあって、昨日は京都に行ってきた。晴れてはいたが、時々どこからともなくみぞれが舞い散ってくるとても寒い日だった。明け方までは雪が降っていたそうだ。朝の太陽でほとんど溶けてしまうくらいの積雪だったようだが、日陰にはまだあちこちに雪がうっすらと積もっていた。
 今回は、金閣寺から仁和寺妙心寺を歩いて周り、最後に京都駅まで電車で戻って東寺に寄った。竜安寺にも入りたかったのだが、改修工事中で入れなかった。途中、妙心寺の近くでお弁当のおにぎりとみかんを食べた。前回の山登りのときもそうだったが、今回も冬枯れの景色の中でゆっくりと考え事をしながら歩くことができた。
 シーズンオフが幸いしてどのお寺もそれほど人が多くなかったので、建物や仏像、庭、襖絵などをゆっくり見ることができた。ある禅宗のお寺の庭に入った時は、他にだれも観光客がおらず、まったくわたし一人きりだった。狩野某が造園した庭を一人で静かに観賞できるというのは、冬の京都ならではのことだろう。
 庭のなかほどに佇みながら、「ありのままを見よ」という道元の言葉を思い出していた。「山は歩く」という道元の言葉が示唆しているように、思い込みを捨ててありのままの世界を見れば、いつも見ているのとはまったく違った深みと豊かさを持った世界が目の前に立ち現れるということだろう。五感を全開にして、ただこの身に自然が語りかけてくるのに任せたときにだけ感じ取れる何かがあるのだ。
 あるがままを感じ取りたい、そう思いながら庭を見ているときに意外なことに気づいた。水の音がとても大きく聞こえてくるのだ。静まり返った庭に、小さな川を流れる水の音がとても大きく響き渡っている。「冬の庭はさびしい」と思っていたが、実は意外とにぎやかなのだなと思いながら水の音に耳を傾けているうちに、しだいに全身を不思議な感覚が包んでいった。庭と自分の境目がなくなっていくような、自分が庭に向かって溶け出していくような、なんとも言えない感覚だった。神の愛が庭全体からあふれ出し、わたしの中に流れ込んでくるようでもあった。
 「ありのままを見よ」という道元の教えは、わたしたちキリスト教徒にも大切なことを教えてくれているようだ。







※写真の解説…1枚目、金閣寺。2枚目、特別公開中の金閣寺方丈の庭。3枚目、仁和寺の庭。4枚目、仁和寺五重塔