やぎぃの日記(22) 14年目の1・17


 1月17日は、神戸の人々にとって本当に特別な日だ。六甲教会でも朝から追悼集会が行われ、信者さんの何人かが震災当日の体験や復興期の苦労を話してくださった。センター試験受験生の集団が坂道を下ってきた時間帯を除けば、教会は一日中厳かな追悼の空気に包まれていた。
 14年前のあの日、わたしは埼玉の実家でテレビを見ていた。ビザの関係でインドから一時帰国していたときだった。当初、数十人と報道された被害者の数は時間を追うにつれてどんどん膨れ上がり、ついに数千人に達した。街が燃え上がる映像もテレビから流れ始めた。テレビを見ながら「何かできることはないのか」と思っていた矢先に、ボランティアが各地から集まり始めているという報道が入り始め、カトリック教会でも現地に支援本部を作ったという知らせが入ってきた。わたしは迷わず神戸に向かって旅立った。
 まず大阪大司教区の司教館に行き担当の神父様に指示をあおいだところ、とりあえず中山手教会の支援本部まで行き、そこで現場責任者の指示に従ってくれとのことだった。公共交通機関は一切動いていなかったので、自転車で中山手教会に向かった。現地にはすでに何人ものボランティアが駆けつけ、教会に泊りこんで支援活動に当たっていた。わたしもそのまま中山手教会に留まり、しばらくのあいだ被災者支援の仕事を手伝わせてもらった。
 わたしの主な仕事は、毎日鷹取教会まで自転車で支援物資を運ぶことだった。鷹取教会の隣には、商店街などの広大な焼け跡が広がっていた。教会までの行き帰り、焼け跡のあちこちにうずくまるようにして佇んでいる人影を見かけることがたびたびあった。おそらく、火事で家を失った人々だ。中には、家族を火事で亡くした人もいるかもしれない。突然大切なものを失って、これからどうしていいか分からないまま焼け跡に佇んでいるのだろう。そのような姿を見るたびに「彼らのために何ができるのか、わたしは一体ここで何をしているのか」と、自分に問いかけざるをえなかった。
 あの街に再びこうして司祭として来ることができたのは、単なる偶然ではないだろう。わたしに何ができるのかは、未だに分からない。この街でミサを立て、この街の人々のために祈るのが今のわたしにできる精一杯のことだ。
※写真の解説…六甲教会の敷地に建てられた、阪神淡路大震災のモニュメント「家族」。