入門講座(26) 諸宗教との出会いⅡ

《今日の福音》マルコ1:21-28
 イエスがカファルナウムの会堂で権威をもって教えを語り、悪霊を追い出した場面です。律法学者たちがモーセ預言者の言葉を引用しながら語るのに対して、イエスは御自身の言葉ではっきりと神の御旨を人々に告げました。そのイエスの態度にまず権威があったと考えられます。
 イエスの権威は、話す内容だけにとどまるのではありません。悪霊を追い出した時のイエスの毅然とした態度にも、イエスの権威がにじみ出ています。悪霊はイエスに「お前の正体は分かっているぞ」と脅しをかけますが、イエスはまったく動じず「黙れ。この人から出ていけ」と応じます。悪霊に付け入るすきを与えないこの態度の中にも、イエスの権威が表れています。神への揺るぎない信仰を持ったイエスは、悪霊の誘惑に対して決して妥協することがないのです。わたしたちも、物欲や名誉欲、怒り、憎しみなどの誘惑に対して、権威ある毅然とした態度で応じたいものです。

《諸宗教との出会い》
 前回、諸宗教に対する態度として論理的に4つが考えられることを紹介しました。絶対主義、包括主義、相対主義、そして現実主義です。今回は、カトリック教会の中にある諸宗教に対する考え方をいくつか紹介したいと思います。

1.第二バチカン公会議の見解
 第二バチカン公会議では、「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」を始めとして、教会憲章、現代世界憲章のなどのあちこちで諸宗教を信じる人々を意識した宣言が行われました。第二バチカン公会議が諸宗教に対してどのような態度をとっているのかを一義的に決定するのは困難ですが、一定の方向性を読み取ることは可能なようです。
(1)キリスト教を信じていない人々の救い
①教会憲章
 教会憲章は、キリスト教を信じていない人々の救いについて次のように語っています。

「神はすべての人に生命と恵みといっさいのものをお与えになり、また救い主はすべての人が救われることを望みたもうのであるから、影と像のうちに知られざる神を探し求めている他の人々からも、神は決して遠くない。事実、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。」(16番)

 ここいう「影と像のうちに知られざる神を探し求めている他の人々」は、諸宗教を信じている人々を含んでいると考えられます。キリスト教を知らない彼らも、それぞれの仕方で神を探し求め、良心に従って誠実に生きている限りイエス・キリストがもたらした「永遠の救い」に達することができるというのです。
②現代世界憲章
 現代世界憲章は、わたしたちの救いがイエスの死と復活によってもたらされることを語った上で、次のように語っています。

「このことはキリスト信者についてばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。実際、キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものであるから、聖霊は神のみが知りたもう方法によって、すべての人の復活秘儀にあずかる可能性を提供されることをわれわれは信じなければならない。」(41番)

 キリスト教を信じていない人でも、聖霊の働きに支えられた善意の人は、イエスの死と復活によって救われるというのです。聖霊の目に見えない働きによって、わたしたちの知らない方法で神様はすべての人に救いの手を差し伸べておられるのです。
(2)諸宗教の中にある真理
 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」は、諸宗教の中にある真理について次のように語っています。

「普遍なる教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も退けない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なってはいるが、すべての人を照らす『真理』のある光線を示すことがまれではない。」(2番)

 諸宗教の中にも真理が含まれていることを、この文章ははっきりと認めています。諸宗教は、無価値な偶像崇拝などではなく、人々を救いへと導く真理を含んだ尊いものだということです。
(3)キリスト教と諸宗教の両立
 ここまで見てくると、第二バチカン公会議は諸宗教を信じる人々もイエス・キリストによって救われることを認めているようです。基本的にはそうだと思うのですが、教会憲章および「教会の宣教活動に関する教令」には、次のような重大な例外が記されています。

カトリック教会が、神により、イエス・キリストをとおして、必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に最後までとどまることを拒むとすれば、このような人々は救われることができない。」(教会憲章14番、「教会の宣教活動に関する教令」7番)

 諸宗教を信じる善意の人々であっても、もしなんらかの方法で「カトリック教会が、神により、イエス・キリストをとおして、必要不可欠なものとして建てられたこと」を知ったならば、キリスト教に改宗しなければならないというのです。カトリック教会が神から全人類に与えられた唯一の完全な救いの道であることを知りながら、カトリック教会に入ることを拒む人は、イエス・キリストによって救われることができないのです。
(4)まとめ
 第二バチカン公会議の諸宗教に対する態度は、次のようにまとめることができるでしょう。
原則・カトリック教会を知らないまま諸宗教の中に誠実に神を探し求めている善意の人は、イエス・キリストの復活秘儀に与って救われる。
例外・カトリック教会が全人類に与えられた唯一の完全な救いの道であることを知りながら、カトリック教会を頑なに拒む人は救われない。
 
2.カール・ラーナーの見解
 カール・ラーナーの諸宗教に対する考え方は、彼の人間観と救済観に基づいています。
(1)人間観
 ラーナーは、すべての人間の心がどこかで神に向かって開かれていると考えています。その開かれた部分からすべての人の心に神の恩恵が聖霊として注がれ、神の声が響いてきます。ですから、キリスト教を信じているかどうかに拘らず、すべての人は神から救いへと招かれているのです。
(2)救済観
 問題は、神からの招きに気づいたときに、神の招きに応え、心を神に向かって開け放つかどうかです。
神の招きに応えるためには、多くの場合自分の思いを犠牲にしなければなりません。自分のためにあれがしたい、これが欲しいというような思いを捨てて、神への愛のために隣人を助けることが求められるようなことがたびたびあります。もし自分の思いを乗り越えて神の御旨に従うならば、わたしたちの心は神に向かって大きく開かれ、そこから豊かに救いの恵みが注がれます。もし自分の思いを優先するならば、心に開かれた窓はその思いによって塞がれてしまいまい、救いの恵みが心に入ってくることはありません。
(3)イエス・キリストによる救いの完成
 自分の思いを全て捨て、神に対して完全に心を開ききることができた人が全人類の歴史の中にただ1人います。それが、イエス・キリストです。イエスが十字架上で、全人類に神の愛を告げるために自分の命さえも神に差し出したとき、イエスの心は神に向かって完全に開け放たれました。その開け放たれた心に、神は御自分の愛のすべてを注ぎこみました。(このことをラーナーは、イエスの完全な自己超越において、神の完全な自己譲与が起こったという言葉で説明します。)
ラーナーは、この出来事に全人類の救いの完成を見ています。全人類は、イエスにおいて実現した完全な救いに与ることによってのみ救われるのです。ですから、他の宗教によいところがたくさんあったとしても、救いの完成はキリスト教のうちにしかないのです。その意味で、キリスト教は絶対的な宗教であり、他の宗教と対等ではありえません。
(4)「無名のキリスト者
 ラーナーは、自分の心の底から呼びかける声が、神の声であると気づかないままそれに従って生きている人たちを「無名のキリスト者」と呼びます。自分の良心に従って「手探りで真理を求めながら」生きている彼らは、自分では知らないうちにイエス・キリストによる救いの完成へと向かって進んでいるのです。
(5)諸宗教の「正当性」
 ラーナーは、諸宗教にも救いへの道としての「正当性」を認めます。ですが、その「正当性」はそれらの宗教がキリスト教と出会うまでのことです。救いへの完全な道としてのキリスト教と出会うとき、諸宗教はキリスト教に道を譲らざるを得ないのです。
(6)まとめ
 ラーナーのこの立場は、第二バチカン公会議の立場を神学的に深めたものだと言えます。ラーナーの立場からも、イエス・キリストが唯一の救い主であると知りながらイエス・キリストを拒む人は救われ難いでしょう。


3.まとめ
 御子イエス・キリストの十字架と復活において全人類の救いが実現したと信じる限り、わたしたちはキリスト教が絶対であるという主張を取り下げることができないでしょう。
 ですが、ここで忘れてならないのは、イエス・キリストが、そしてキリスト教が絶対であるということは、信者であるわたしたち一人ひとりの考えや知識が絶対であるということを意味しないということです。諸宗教は、わたしたちが忘れかけていた大切なイエスの教えを、別の形で思い出させてくれることがたびたびあります。諸宗教にちりばめられた真理の光は、わたしたちの信仰を別の側面から照らし、わたしたちがイエスの姿をはっきりと見るのを助けてくれるのです。
 ですから、諸宗教に対して謙虚な心で向かい合っていきたいものだと思います。第二バチカン公会議が示してくれた方向性に従って謙虚な心で諸宗教と出会うならば、わたしたちの信仰はより豊かなものになっていくでしょう。

《参考文献》
日本カトリック司教協議会諸宗教部門編、『諸宗教対話 公文書資料と解説』、カトリック中央協議会、2006年。
・Rahner, Karl, ‘The One Christ and the Universality of Salvation’, Theological Investigations 16, Crossroad, 1983.
・Rahner, Karl, ‘Christian and the Non-Christian Religions’, Theological Investigations 5, Crossroad, 1983.
・Rahner, Karl, ‘Anonymous Christians’, Theological Investigations 6, Crossroad, 1983.
・Rahner, Karl, ‘Christianity’s Absolute Claim’, Theological Investigations 21, Crossroad, 1988.