やぎぃの日記(23) ミサについて語り合う


 先週の土曜日、新年になって初めての「ともに考える会」があった。「日々の生活の中でミサを生きる」というテーマでわたしが30分ほど話した後、ミサの中での体験や自分にとってミサは何なのかというようなことについて1時間半くらい分かち合いをした。分かち合いは3つのグループに分かれて行った。今回はやや難しいテーマだったので参加者は少ないかなと心配したが、遅れてきた人たちも合わせると25人ほどの若者が集まった。
 わたしは3つの分かち合いグループを順に回って歩きながら、全体の様子を見ていた。いろいろな話を聞いている中で多かったのは、「ミサの聖なる雰囲気の中で日常生活の疲れが消え、新たな気持で一週間を過ごすことができる」とか、「日常生活では神様から離れてしまうことが多いけれど、ミサのときには神様のもとに帰って安らぐことができる」というような声だった。他に、ミサに与ることで罪がゆるされたと感じるとか、汚れが清められたと感じるというような声もあった。
 彼らの話を聞いているうちに、わたしは「あっ、しまった。一番大切なことを忘れていた」と思った。わたし自身、ミサに出始めたころ、イエズス会に入って神学を勉強し始める前はミサをそのようなものとして実感していたはずだった。人々がミサに求めているのは、日常生活とは異なった時間と空間の中で神様と出会うことなのだ。ミサに行きさえすれば、神様が両手を広げて自分を受け止めてくれる。神様の愛の中ですべてをゆるされ、生きる力を与えられる。そう思うからこそみんな忙しい中わざわざミサにやってくるのだ。
 修道生活をして毎日ミサに与ったり、今のわたしのように教会に住んでいたりすると、この素朴な感覚を忘れてしまいがちだ。人々はいい説教を聞くためにミサに来るのでも、きれいな典礼を見るためにミサに来るのでもない。そういったものも大切なのは当然だが、人々がミサに一番求めているのは神様との出会いだ。神様の近くで心穏やかなひとときを過ごし、癒され、新たな力を与えられて再び社会に戻っていく、そのためにみんなミサにやってくるのだ。このことは忘れないようにしたい。
 ふだん、若者たちとミサについて改めて話すことはほとんどない。今回、彼らの口からミサに対する熱い思いを聞くことができて本当によかった。彼らの思いに応えられるようなミサを、彼らとともに作り上げていければと思う。
※写真の解説…雪をかぶった杉苔。金閣寺にて。