バイブル・エッセイ(43) イエスの権威


 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 人々は皆驚いて、論じ合った。
 「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコ1:21-28)

 イエスの権威に打たれた人々が、イエスの教えをガリラヤ地方の隅々にまで広げていきます。イエスの権威とは、一体どのようなものだったのでしょう。
 イエスの権威は、「汚れた霊」との問答の中にはっきりと現れています。「お前の正体は分かっているぞ」と言ってイエスを脅そうとする悪霊に対して、イエスはまったく動じずただ「黙れ、出ていけ」とだけ答えました。悪霊に付け入る隙をまったく与えない、毅然とした態度です。この揺るぎない態度の中に、人々はイエスの権威を見たのでしょう。
 わたしたちの心の中にもたびたび悪霊が忍び込んできます。たとえば誰かが自分の悪口を言っているのを耳にしたとき、「こいつがいるとお前の立場が脅かされるぞ」という悪霊の声がわたしたちの心に響いてきます。もしその声に「そうかもしれないな」と頷いてしまうと、その声は次に「あいつはどうしようもない奴だな」と語りかけてきます。その声にも頷いてしまえば、さらに「前にもあいつはあんなことをしたじゃないか」、「あいつがいる限り安心できないぞ」、「あんな奴は死んでしまえばいい」というような声が次々に響き、わたしたちの心を占領していきます。これが、わたしたちの心を悪霊が乗っ取るときの典型的なパターンだと思います。
 そのようなときに、イエスの権威ある態度を思い出したいものです。大切なのは最初の誘惑があったときに、決然としてその声を退けることです。「黙れ、出ていけ」と言って悪霊を追い払うことです。最初の誘惑に乗ってしまえば、もう悪霊の思うつぼです。気がついたとき、悪霊の力はもう抵抗不能なくらいに大きくなっています。
 エスの権威は、悪霊の誘惑に決して耳を傾けず、ただ神様の声だけに従う決然とした態度から生まれる権威です。人々に威張り散らすような権威ではなく、むしろ自分自身の弱さに打ち勝つ権威なのです。このイエスの権威に、わたしたちも見習いたいと思います。
※写真の解説…さざんか。神戸市森林植物園にて。