バイブル・エッセイ(45) 喜びの福音

 このエッセイは、2月8日の子どもミサでの説教に基づいています。

 わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(Ⅰコリ9:16-23)

 パウロは、イエス様と出会ったことを人に話すことができないなら自分は不幸だ。イエス様と出会えたことを、みんなで一緒に喜びたいと言っています。どうしてそんなに話したくて仕方がないのでしょう。考えるための手がかりとして、太郎くんの話しをしてみたいと思います。
 太郎くんは田舎の町に住んでいる小学2年生の男の子です。お父さんとお母さんはお百姓さんで、太郎くんはいつもお父さん、お母さんが畑で働いているのを見ながら遊んでいました。ところが、あるときお母さんが足の病気で入院することになってしまいました。それも、4か月ものあいだです。お母さんがいない間、叔母さんが食事を作ってくれましたが、太郎くんはさびしくて、つまらなくて仕方がありませんでした。
 4か月たってお母さんがようやく家に帰ってきました。太郎くんはもう、うれしくてうれしくて仕方がありません。お母さんが布団に横になった後、家を飛び出して出会う人みんなに「今日、お母さんが帰ってきたんだよ」と言ってまわりました。駄菓子屋のおばさんは、にっこり笑って「よかったね。もうだいじょうぶだ」と言ってくれました。友だちも「よかったな」とうれしそうに言ってくれました。
 しばらく行くと、近所のおじさんにも出会いました。太郎くんは前にバッタを採るためにそのおじさんの畑に入って怒られたことがあったので「どうしようかな」と迷いましたが、思い切って「お母さんが帰ってきたんだよ」と声をかけました。すると、おじさんはにっこり笑って「よかったね」と言ってくれました。太郎くんは、前よりもっとうれしくなって、日が暮れるまで家の周りをスキップしたり歌ったりしながら駆けまわっていました。
 どうでしょう。もし太郎くんが誰にもお母さんのことを話してはいけないと言われたら、きっと不幸だったと思いませんか。パウロもイエス様と出会えたことがうれしくてうれしくて仕方がなかったのではないかと思います。だから、太郎くんのようにみんなに話して歩いたのです。その喜びは、パウロの場合一生続きました。最後に「もう話すな」と言われて殺されてしまうまで、パウロはイエス様と出会えた喜びをみんなに話して回ったのです。
 わたしたちは、教会でイエス様に出会います。イエス様と出会えた喜びを、パウロのようにたくさんの人に伝えていければいいですね。みんなで一緒に喜ぶことができれば、喜びは何倍にも大きくなっていくでしょう。
※写真の解説…教会の庭に咲いたすいせん。