入門講座(29) 性の倫理

《今日の福音》マルコ5:21-43
 今日の朗読箇所は、ヤイロの娘の蘇りの奇跡の物語の間に、長血を患った女性の治癒の物語が挟まれる形になっています。
 まず長血の女性の治癒です。長血というのは、婦人病の一種で、子宮からの出血がなんらかの理由で止まらなくなる病気だと言われています。ユダヤ教の律法では、そのような状態の女性は汚れていると考えられていましたから、彼女は社会から疎外されるという心の苦しみも背負った人だったのです。彼女がイエスの服に触れたとき、イエスから力が出ていきました。イエスの体内に満ちている癒しの力が、接触や言葉などを通して人々にあふれ出していったようです。わたしたちも、祈りの中でイエスと何らかの出会いを体験するときにそれを感じることができるでしょう。
 次に、ヤイロの娘の蘇りです。福音書には、この他にナインでの若者の蘇り(ルカ7:11〜)とラザロの蘇り(ヨハネ11:1〜)の2ヶ所で死者の蘇りの奇跡が語られています。これは、ある意味で究極の癒しの奇跡ということができるでしょう。幼い娘や一人息子などの死に直面して嘆き悲しむ人々の姿に心を打たれたイエスは、死者を蘇らせることさえしたのです。復活と違って寿命を全うすればまた死ぬ運命の蘇りですが、イエスの人々への愛の深さがひときわ輝く奇跡だと言えるでしょう。当時、死者の蘇りは終末にのみ起こることと考えられていましたから、人々はその様子を見て終末が近いと感じたかもしれません。

《性の倫理》
 キリスト教の倫理について考えるシリーズの3回目である今回は、性の倫理を扱いたいと思います。性についての教えは、教会の大切な教えの一つなのですが、洗礼を受けてから長い方でも耳にしたことがないという方がかなりいらっしゃいます。そのことを茶化して、性についての教会の教えを「教会で一番よく守られている秘密」などと呼ぶ人もいます。

1.性とは何か
 キリスト教では長い間、性欲や性交渉がそれ自体として罪深いものと見なされてきました。アウグスティヌスに端を発すると言われるこの傾向は、原罪説と共に教会の中に脈々と受け継がれ、現代に至っています。ですが、最近、性を別の角度から見直そうという動きがあります。
(1)言語としての性
①身体言語
 性交渉に限らず、声、身振り、表情などすべての人間の身体的な表現は、性と密接に結びついています。男性と女性の身体にはそれぞれの性的特徴がありますが、その性的特徴と共にそれらの表現がなされるからです。女性の優しい声と男性の低くて堂々とした声、女性の柔らかい手と男性のごつごつした手、それらは仮に同じ言葉やしぐさをしたとしても、それぞれに固有の性的特徴を帯びています。
 その意味で、性は人間の自己表現、そしてコミュニケーションと密接不可分なものです。そこで、最近では性を言語の一部として理解しようという動きがあります。
②性における完全な一致
 性を言語として捉えた場合、性交渉は、無条件の自己譲与と他者の受け入れの表現になりうるものです。三位一体の神は位格同士が互いを完全に与え合う交わりの中にいますが、男女も性交渉において互いを無条件に与え合う交わりを実現することができるのです。その意味で、性交渉は決して汚れた罪深いものではなく、愛の最高の表現として清らかなものになりえます。夫婦の愛の表現としての性交渉は、神の御旨にかなったものなのです。
③性交渉の意味
 『いのちへのまなざし』は、性交渉の意味について次のように語っています。
「性の交わりを通して、愛する喜び、愛される喜びを深く確かめ合うことのできる男女は、どんな厳しい人生の試練に直面しても、それをくぐりぬけることのできる勇気をくみ取ります。」(28番)
(2)生命の神秘としての性
①性交渉と生命の誕生
 性的な交わりは、生命の誕生と密接に結ばれています。神は、性交渉を通して生命をこの地上に誕生させます。自然に行われる性交渉は、基本的に妊娠と出産の可能性に開かれたものです。
②生命誕生の手段か
 かつては、性交渉の罪は妊娠と子育ての苦しみによって贖われると考えられたり、性交渉は出産のためだけに認められる必要悪であると考えられたりしていた時期がありました。ですが、現在ではそのようには考えられていません。仮に病気などの理由で出産と結びつく可能性がなかったとしても、性交渉は夫婦の愛の表現として尊いものです。
(3)性の危険
①情欲との関係
 性は、人間を罪へと誘う情欲とも深く結び付いています。性はそれ自体として神の御旨にかなったものですが、他者に対する歪んだ執着の表現となる場合、人間を罪へと誘う力になります。相手の肉体を自分が快楽を得るための道具として扱うならば、性交渉はもはや愛の表現ではなく恐るべき暴力と化します。
②人間関係からの疎外
 人間関係からの阻害は、他者に対する歪んだ執着の温床になりえます。健全な愛の関係を異性との間にはぐくんでいくことで、性的欲望が暴走するのを防ぐことができるでしょう。

2.例外はないのか?
 いかがでしょうか。この教えを聞いて、カトリックはずいぶん厳しいなと思った方もいるのではないかと思います。この教えには例外がないのでしょうか。近年では、エイズを防ぐためにコンドームを使用することは世界的に勧められていることですが、キリスト教エイズ防止のためであってもコンドームの使用を認めるべきでないのでしょうか。2つの立場が考えられます。
(1)義務論
 もし罪が、人間の本質から決定されるのだとすれば、人間の本質に反すると考えられる行動は例外なくすべて罪であることになります。教会は、コンドームの使用、同性愛などを人間の本質に反する罪と考えていますから、一切の例外を認めません。人間の本質から義務が導かれるとするこの立場を、義務論と呼びます。
人為的避妊に関して、パウロ6世は「善を導き出すために悪を行うことは、最も重大な理由のためでも、絶対にゆるされません」(回勅『フマーネ・ヴィテ』14番)と述べて、断固として認めない立場を示しています。
(2)関係論
 このような立場に対して、ある行為が神の御旨に反する罪深い行為かどうかは、具体的な人間関係やその人が置かれた環境との関係の中で判断されるべきであって、例外なしに罪である行為は少ないと考える立場があります。この立場を、関係論と呼びます。コンドームの使用などを、ケースバイケースで認めていこうとする立場です。
 この立場は人々の理解を得やすいのですが、では具体的にどのケースでそれが認められるのかという判断を行う段階で大きな困難に直面します。安易に流れれば、すべての倫理原則を骨抜きにしてしまう可能性さえあります。教会は、この立場を認めていません。

3.まとめ
 性の倫理は、同性愛や人為的避妊の可否など非常にデリケートな問題を含んだ分野です。教会の教えを、人を裁くために利用することは避けなければなりません。あくまで、自分自身と神との関係を決定していくために利用するべきでしょう。教会の教えに導かれつつ、祈りの中で慎重に判断していきたい分野だと思います。

《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
・日本カトリック司教団、『いのちへのまなざし』、カトリック中央協議会、2001年。
ヨハネ・パウロ2世回勅『真理の輝き』、カトリック中央協議会、1995年。
・ヘーリング、ベルンハルト、『キリストにおける性の解放』、サンパウロ、1989年。