やぎぃの日記(132)エキュメニズム勉強会


エキュメニズム勉強会

 神戸地区の養成委員会からエキュメニズムについての勉強会をしてほしいと頼まれた。昨年からわたしが地区長として超教派の祈りの集いや社会活動などに力を入れているのを見て、エキュメニズムに関心を持つ信徒の方が増えて来たらしい。
 担当者から、エキュメニズムをどうしたら日々の生活の中で実践できるのかについても話してほしいと言われて、その観点から教会の諸文書を読み直してみた。驚いたのは、どの文書もエキュメニズムの出発点を回心においていることだ。例えばヨハネ・パウロ二世は回勅『キリスト者の一致』の中で、わたしたち自身が罪びとであることを認め、謙遜さのうちに「物事を平静に澄んだ目で正直に見ること」エキュメニズムの条件であり、「敵愾心を持つものは姿を消さなければなりません」と述べている。お互いがそのような姿勢で対話を続け、諸教会の兄弟姉妹たちと共に神の前に跪くとき、一致への道が示されるだろうというのだ。
 つまり、わたしたち一人一人がイエスの教えを忠実に守り、謙遜になることこそがエキュメニズムの第一歩だということだ。仮にカトリック教会がどれほど正しかったとしても、それはカトリック教会に属するわたしたちが正しいということを意味していない。むしろ、自分のようなとるに足りない罪びとが聖なる教会に招かれたことを感謝し、どこまでも遜ることこそふさわしい態度だろう。もしカトリック信者であることを誇って他教会の人々を見下したような態度をとる人がいれば、その瞬間にその人はよいカトリック信者ではなくなり、誇る根拠を失ってしまう。
 謙遜な態度でプロテスタント諸教会の人々と出会うとき、そこから受ける恵みは計り知れない。わたし自身は、プロテスタントの牧師先生の話を聞いたり、彼らの書いた本を読んだりするたびごとに新しい発見をし、魂を揺さぶられる。おそらく相手側も似たような体験をしているのではないだろうか。それぞれがお互いを通して神の恵みの広がりと深さを知るとき、わたしたちはそろって神の前に跪く以外になくなる。そのようにして、謙遜さのうちに心を1つにして祈り続けるうちに、必ず次の一歩が示されるに違いない。
 教会一致への道のりは長く困難なものに間違いないが、もはや引き返すことはできない。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34-35)というイエスの言葉をしっかり胸に刻んで、この道を歩み続けたいと思う。
※写真の解説…落ち葉に覆われた冬の徳川道