バイブル・エッセイ(48) イエスのもとへ

  このエッセイは、2月22日に行われた子どもミサでの説教に基づいています。
 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコ2:1-12)

 今日の福音を読んでいて、わたしはマザー・テレサのことを思い出しました。あるとき、マザー・テレサは道端で倒れている老人を見つけました。マザーはその人を自分の家に連れて帰ろうとしましたが、その人は「わたしなんか放っておいてくれ」と言ってなかなか動こうとしません。マザーはシスターたちの助けを借りてなんとかその人を説得し、車に載せて家まで運び、その人の体を洗ったり、傷の手当てをしたりしてあげました。
 ですが、その病気の人はなかなかシスターたちに心を開いてくれません。それどころか、口を開くたびに「どうして助けたんだ」、「わたしなんか死んでしまった方がいいんだ」と言います。シスターたちの看病にもかかわらず、その人の容体はどんどん悪くなっていき、いよいよ最後のときが近づいてきました。マザーがその人の手を握ってじっとベッドの傍らに座っていると、今まであまり口を開かなかったその人が話し始めました。「実はわたしを道に捨てていったのは、自分の息子なのです。それ以来、わたしはもう死んでしまった方がいいと思っていました。今、わたしはあなたたちに見守られて、天使のように死んでいくことができます。ありがとう。」そう言うと、その人はそのまま息を引き取りました。きっとこの人は、天国に直行したでしょう。この人を思うマザーの熱心さが、この人の心に救いをもたらしたからです。
 大切な人を思う熱心な心が、救いを呼び起こすことがあります。今日の福音では、病人を思う4人の男性の愛が、病人に救いをもたらしました。この病気の人も、もしかすると苦しみの中で「自分は神様から捨てられた。自分には生きている価値がない」と思っていたかもしれません。ですが、彼を思う人々の愛が彼をイエスのもとに運び、彼を癒したのです。この病気の人は、体を治してもらった喜びだけでなく、自分のことを真剣に心配してくれた人が4人もいてくれたことへの感謝にも満たされながら床を担いで家に帰ったことでしょう。
 わたしたちの身の回りにも、癒しを必要としてる人がいるかもしれません。わたしたちの身の回りにも病気で、あるいは孤独の中で「自分は神様から捨てられた。自分には価値がない」と思いこんでいる人がいるかもしれません。その人たちをなんとかイエスのもとに連れていきたいものです。もしわたしたちが心の底からその人のことを大切に思い、その思いを言葉と行いに表していくならば、わたしたちはきっとその人をイエスのもとに運ぶことができます。イエス様は、その人を必ず癒してくださるでしょう。1人でも多くの人をイエスのもとに運んでいきたいものです。
※写真の解説…岡本梅林から打越峠に向かう道。