バイブル・エッセイ(210)友のために祈る


友のために祈る
★この話は、先日、教会学校のミサで子どもたちに話した内容に基づいています。
 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。(ルカ5:17-25)
 ここのところ毎日のように「東北の人たちのために祈りましょう」と言われていますが、皆さんの中には「なぜ東北の人たちのために祈らなければならないのだろう。祈ることに何か意味があるのかな」と思っている人がいるかもしれません。今日読まれたこの話が、そんなみんなの疑問に答えてくれると思います。この話の前に、こんなことがあったと考えてみてはどうでしょう。
 中風という病気にかかったこの男性、聖書には名前が出てきませんが仮にマナセと呼んでおきましょう、マナセは長いあいだ痛みの中で苦しんでいました。ずいぶん神様に祈り、治してくださいと願ったのですが、何年たっても病気はいっこうに治りません。マナセはしだいに「ぼくは神様に見捨てられたんだ」と思うようになり、もう祈ることさえやめてしまいました。
 そんなある日、マナセのことを心配した友だちが4人やって来てマナセに言いました。「近頃、カファルナウムにイエスという偉い先生が来て、なんでも病気を治してくださるそうだ。『神の子』だという噂さえある。一緒に行って君の病気を治してもらおう。」しかし、マナセはみんなに背中を向けながら言いました。「どうせぼくは神様に見捨てられたんだ。誰もぼくのことなんか治せやしないよ。」4人の友だちは困ってしばらく相談していましたが、やがて互いの顔を見て軽くうなずくと、一斉にマナセに飛びかかってマナセを無理やり担架に乗せてしまいました。マナセは「離せ、やめてくれ」と叫びましたが、担架はどんどんイエスのいる場所に運ばれていきます。イエスの周りにはたくさんの人がいましたが、友だちは力を合わせてマナセを屋根の上にあげ、ついにイエス様の前に出してしまいました。
 こうして連れて来られたマナセにイエスは「あなたの罪は赦された」と話しかけられたのです。神様を信頼しなかったマナセの罪は、マナセを思う友たちの信仰によって赦され、マナセはもう一度歩くことができるようになりました。
 大きな苦しみの中にある人は、ときにマナセのように考えてしまいがちです。「わたしなんかもうだめだ」、「神様はぼくなんか嫌いなんだ」と思ってあきらめて、もう祈ることさえやめてしまうのです。誰かのために祈るというのは、そんな風に考えてうずくまっている友だちを、祈りの力でイエス様のところに連れて行くということだと思います。マナセの友だちがしたように一生懸命祈るなら、イエス様は必ずわたしたちの友だちを癒してくれるでしょう。あきらめていた友だちも、イエス様の優しい声をきいてもう一度神様を信じ、立ち上がるに違いありません。 
 ですから、大きな苦しみの中にいる友だちのために祈るというのは、とても大切なことです。今、東北にはまだ将来への希望を見いだせず、祈れなくなっている友だちがたくさんいると思います。その友だちのために祈り、その友だちをイエス様のところに運んでいきましょう。一人では無理でも、わたしたちみなんが祈りの力を合わせれば、きっとたくさんの人をイエス様のところに運べるはずです。
※写真の解説…道端で見かけたユリの花。軽井沢にて。