入門講座(31) マザー・テレサの霊性① 年譜で見るマザーの生涯

《今日の福音》マルコ8:14-21
 神に背いて自分の利益ばかりを考える人間の思いを、イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」と呼んで弟子たちに注意を促しました。ですが、パンを持ってくるのを忘れた弟子たちは、イエスがパンを持ってこなかったことを叱っているのだと勘違いしてしまいます。これは大変な勘違いですが、弟子たちの食べ物に対する執着を示すものだと考えられます。
 そのことに気づいたイエスは、弟子たちに自分が行ったパンの増やしの奇跡のことを思い出させました。パンを与えてくださるのは神様で、もし神様に信頼しているならば食べ物のことで心配する必要はないということを、イエスは弟子たちに気づかせたかったのでしょう。そして、一番大切なのは神様にすべてを委ねて、ただ神様の御旨を行うことだと悟ってほしかったのだと思います。イエスが弟子たちを叱るのに使った言葉は、エレミヤ書5章などからの引用だと考えられます。

マザー・テレサ霊性
 今回から4回にわたって、霊性神学を取り扱いたいと思います。霊性とは、ある人と神様との関係だと考えたらいいと思います。霊性神学とは、霊的に優れた人たちの神様との関わり方を学ぶことによって、そこからわたしたちの霊的進歩に役立つ恵みをいただくための学問です。
 今回と次回は、マザー・テレサ霊性を取り上げます。3、4回目では、ジャン・バニエの霊性を取り上げたいと思います。切り口は違いますが、2人とも現代社会の中でわたしたちがどのように神様と関わることができるのかを示してくれています。
 マザー・テレサ霊性はいくつかの特徴を持っていますが、今回は彼女自身の言葉を使って「喜びの使徒」としての霊性と、最近注目を集めている「暗闇の聖人」としての霊性の2つの側面から光を当ててみたいと思います。

1.マザー・テレサの生涯
 マザーの霊性を考える前に、彼女がどのような生涯を生きたのかを振り返ってみましょう。今回は、彼女の生涯を、誕生からロレット修道会入会まで、ロレット修道会入会からスラム街に出るまで、スラム街に出てから「神の愛の宣教者会」を創立するまで、「神の愛の宣教者会」を創立してからノーベル平和賞を受賞するまで、ノーベル平和賞受賞から帰天までの5つの時期に分けて振り返りたいと思います。

(1)誕生からロレット修道会に入会するまで
①年譜
1910年 8月26日、オスマン・トルコ帝国支配下バルカン半島マケドニアスコピエ市でアルバニア人の両親のもとに誕生。翌日、幼児洗礼を受ける。幼名はアグネス・ゴンジャ。父、ニコラ、母、ドラナフィル、姉、アガ、兄ラザール。
⇒意外なことかもしれませんが、1912年の第一次バルカン戦争までマケドニアオスマン・トルコ帝国の支配下にありました。マザーは、イスラム教の帝国で生まれたのです。
1912年 第一次バルカン戦争勃発。
1913年 第二次バルカン戦争勃発。
1914年 第一次世界大戦勃発。
1916年 初聖体を受ける。
1918年 第一次世界大戦終結
1919年 父、ニコラ・ボワジュー死去。
アルバニア独立運動に関連して毒殺されたとも言われています。ニコラの死後、財産は商売の共同経営者によって持ち去られてしまいました。ドラナフィルは刺繍した布を商うことで生計を立てていきます。ドラナフィルは、貧しい人たちにたびたび施しをする、心の優しい人だったと言われています。
②マザー自身の言葉
・「わたしの両親はアルバニア人です。第一次世界大戦の前に、その頃まだユーゴスラビアではなく、そして今はもうユーゴスラビアではない場所で生まれました。多くの意味で、わたしは自分の国を持たないとはどういうことかを実感しています。」
・「初聖体を受けた5歳半のときから、わたしの心には人々の魂への愛が燃え続けています。」
・「はじめの頃、わたしがまだ12歳から18歳頃までは、修道女になりたくありませんでした。わたしたちの家族はとても幸せだったからです。でも18歳のときに、家を離れて修道女になる決心をしたのです。それ以来40年間、一瞬たりとも自分のしたことが正しかったかどうか疑ったことはありません。それは、神の御旨だったのです。神がお選びになったのです。」

(2) ロレット修道会入会からスラム街に出るまで
①年譜
1928年 10月12日、ロレット修道会入会。
⇒18歳のとき、マザー・テレサマケドニアを離れ、アイルランドのラスファーナムで「ロレット修道会」に入会しました。ロレット修道会は、女性であってもイエズス会員のように教会に奉仕したいと望んだ修道女、メリー・ウォードによって17世紀に創立された修道会です。
 マザーがロレット修道会に入ったのは、次のような事情によると言われています。当時、マケドニア地方からたくさんのイエズス会員がインドのビハール州に派遣されていました。所属していた小教区がイエズス会に委ねられた小教区だったこともあり、マザーは彼らが故郷に書いた手紙を目にする機会がたびたびありました。その手紙を通して、インドの貧しさの現実に触れたマザーは、自分もインドで貧しい人たちに神の愛を伝えたいと思うようになりました。教会の司祭にそのことを打ち明けたところ、司祭はイグナチオ霊性を生き、インドでも活動している女子修道会、ロレット修道会をマザーに紹介しました。マザーは、司祭の勧めに従ってロレット修道会に入会することを選びました。
 旅立ちのとき、母のドラナフィルは「イエスの手をしっかり握って、いつでもただイエスと共に歩いて行きなさい。前を向いて歩きなさい。もし後ろを見るなら、あなたは後退することになります」と言ってマザーを見送ったそうです。
1928年 12月1日、インドに旅立つ。
⇒ラスファーマンで2ヵ月英語を勉強した後、マザーは船でカルカッタに向けて旅立ちました。
1929年 1月6日、インドに到着。ダージリンで修練期に入る。
1931年 5月25日、ロレット修道会での初誓願。修道名はテレサカルカッタに移動して、セント・メリー・ベンガル中等学校の教員として働く。
1937年 5月24日、ロレット修道会での終生誓願。「マザー・テレサ」誕生。
⇒マザーが「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのはこのときからです。当時、ロレット修道会では終世誓願を立てた修道女を「マザー」と呼んでいました。
1941年 12月8日、太平洋戦争勃発。
1942年 4月、「神が望むものを拒まずに差し出す」という私的誓願宣立。
⇒マザーは、最後のときまでこの誓願を忠実に守りとおしました。神の望みに対して、マザーは一度も「いいえ」と答えたことがありませんでした。マザーがせっかちだったのも、神の望みにすぐ応えたい一心からだったと言われています。
 当時、何人かの聖人たちが私的誓願を立てたことが知られていたこと、アルバニア人の間に「ベサ」という固い約束の習慣があったことが、マザーの私的誓願の背景にあるようです。
1942-43年 ベンガル大飢饉で2,000,000人以上が死亡。
1944年 セント・メリー・ベンガル中等学校の校長に就任。
⇒日本軍がインド方面に侵攻してきたことで引き起こされた非常に困難な状況の中で、マザーの無私な奉仕の精神はひときわ輝いていたようです。当時の彼女の様子を知る同僚の修道女は、「マザーはまったく無私の人でした。彼女の自己犠牲は人並みはずれていました。神様への愛のためなら、彼女はどんなことでもし、どんな辱めや苦しみにも耐えたのです」と証言しています。
1945年 8月15日、太平洋戦争終結
⇒戦争中、日本軍がカルカッタを空襲したこともあったそうです。
1946年 8月16日、カルカッタ大虐殺。
⇒インドとパキスタンの分離独立に伴って、カルカッタヒンドゥー教徒イスラム教徒の間に激しい争いが起こりました。非常に危険な状況であったにも拘らず、マザーは子どもたちの食料を集めるため、街に出ていきました。
1946年 9月10日、ダージリンへ向かう列車の中で、神の呼びかけを聞く。この後、たびたび神の呼びかけを聞くようになる。
⇒このとき、マザーは「召し出しの中の召し出し」を受けたと証言しています。インドの貧しい人々のために働くよう、イエスから新たな使命を与えられたのです。このときマザーは、イエスが十字架上で「わたしは渇く」と言っているのを聞いたようです。
この体験以降、マザーはたびたびイエスの声を聞いたり、ビジョンを見たりするようになりました。そのときの様子は、マザーがペリエール大司教に宛てた手紙の中に詳細に記されています。拙訳、『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社刊に収められていますので興味のある方はお読みください。
1947年 1月、エクセム神父との関係を疑われ、アサンソールへ移動。/7月、誤解が解けてカルカッタに戻る。/8月15日、インド独立。
⇒イエスの呼びかけを聞くようになって以来、マザーは霊的指導司祭のエクセム神父と頻繁に話すようになりました。事情を知らない周囲の修道女たちは、そのことを怪しみ、長上に報告したようです。半年後、総会長の介入によってこの誤解は解け、マザーはカルカッタに戻ることができました。
 マザーは、アサンソールでイエスと共に静かに過ごす恵みのときを過ごすことができたと後に回想しています。アサンソールで過ごした日々は、マザーにとって「霊的苦しみ」の時期に入る前に与えられた、つかの間の至福のときだったようです。
②マザー自身の言葉
・「道に出ると、あちこちに死体が横たわっていました。そのとき、兵士を満載したトラックがわたしの前に止まり、道に出てはいけないと言いました。…兵士たちは米を持っていました。彼らはそのままトラックで学校までわたしを連れて帰り、米の袋をわたしたちのために置いて行ってくれました。」
・「1946年、わたしは黙想をするためにダージリンに向かっていました。その列車の中で、すべてを捨てて、貧しい中でも最も貧しい人々のうちにおられるキリストに仕えるために、キリストのあとについてスラムに出るようにという呼びかけを聞いたのです。わたしには、それが神の御旨であることがわかりました。ですから、キリストについていくほかなかったのです。」
・「アサンソールでは、まるで主がわたしに自分をまるごと下さったようでした。ですが、甘美で、慰めに満ち、主と固く結ばれたその6カ月は、あっという間に過ぎてしまいました。」

(3)スラム街に出てから「神の愛の宣教者会」を創立するまで
①年譜
1948年 1月6日、カルカッタ大司教ペリエール師、マザーがスラムの人々のために働くことを許可。
イエズス会員であるペリエール師は、マザーの希望を聞いてから慎重に識別を重ね、ついにマザーが貧しい人々のために働くために手続きを進めていくことを許可します。
1948年 8月8日、教皇ピオ12世、マザーが院外居住生活に入ることを許可。
⇒マザーは、イエスに呼ばれている以上失敗はありえないと確信して、還俗の許可を教皇様に求めました。しかし、教皇様はマザーに、とりあえず修道女のままで1年間だけ貧しい人たちのために働く許可を与えました。
1948年 8月17日、5ルピーをだけもって、院外居住生活に入る。/パトナの聖家族病院で、基礎的な医療技術を身につける。
1948年 12月21日、「神の愛の宣教者」として初めてスラム街に入る。
1949年 2月、ゴメス家の3階に間借りする。/3月19日、シスター・アグネス、マザーの活動に参加。/12月、インド国籍取得。
このころ(1949年から1950年頃)から、その後50年に渡って続くマザーの霊的苦しみが始まる。
⇒マザーの教え子だったスバシニ・ダスが、最初の仲間としてマザーのもとに駆けつけると、次々に教え子たちがマザーのもとに集まってきました。この様子を見て、ロレット修道会からマザーに対して激しい非難の声が上がりました。マザーはもともと、ユーゴスラブ系であることから修道会の中で差別を受けていたようです。
②マザー自身の言葉
・「今日、わたしはいいことを学びました。貧しい人々の貧しさは、非常に厳しいものだということです。部屋を探して歩き回っていたとき、わたしは足と腕が痛くなるほど歩きに歩きました。わたしはそのとき、貧しい人々の体と心が、家や食べ物、助けを求めているときに同じような痛みを感じているに違いないと思ったのです。そのとき、誘惑が起こってきました。ロレットの宮殿のような建物が、こころの中に入り込んで来たのです。…これは、修道会が誕生する前夜の闇なのでしょう。」
・「わたしの心の中には、まるですべてが死に絶えてしまったかのような恐ろしい暗闇があります。この状態は、わたしが神から与えられたこの仕事を始めたあたりから始まったようです。」

(4)「神の愛の宣教者会」創立からノーベル平和賞受賞まで
①年譜
1950年 10月7日、「神の愛の宣教者会」ローマ教皇庁によって承認される。
1952年 6月、「死を待つ人の家」開設。
1953年 2月、現在のマザー・ハウスに移動。
⇒ゴメス家が手狭になったため、マザーは大司教にお金を出してもらってイスラム商人の大きな家を購入しました。それが、今のマザー・ハウスです。
1953年 3月、霊的苦しみをペリエール大司教に告白。
⇒マザーはこのとき、数年来心のうちに隠していた霊的な苦しみを初めて他人に打ち明けました。
1953年 4月、マザー、「神の愛の宣教者会」修道女としての最終誓願宣立。最初のシスターたち、初誓願宣立。アン・ブレーキーを中心に、「マザー・テレサ共労者会」発足。マザーの活動、世間から注目されるようになる。
1955年 「子どもたちの家(シシュ・ヴァバン)」開設。
1956年 4月、マザー、ピカシー神父に霊的苦しみを告白。
⇒黙想を指導に来たイエズス会のピカシー神父にも、マザーは霊的苦しみを告白しました。この後、ピカシー神父がカルカッタ大司教枢機卿になるまで、マザーとピカシー神父の文通は続いてきました。
1957年 11年ぶりに母から手紙が届く。
マケドニアが共産圏に入ったことから、1946年以来マザーは母ドラナフィルと連絡を取ることができませんでした。ドラナフィルは、1948年にマザーが修道会を出たと聞いたあと何の知らせもなかったので、マザーが死んだものと思っていたようです。
1959年 4月12日、最初のシスターたちが最終誓願宣立。
1960年 7月、ロス・アンジェルスで講演。初の海外講演。
1961年 4月、マザー、ノイナー神父に霊的苦しみを告白。ノイナー神父の霊的指導によって、霊的苦しみを受容。
⇒黙想を指導に来たイエズス会のノイナー神父にも、マザーは霊的苦しみを告白しました。ノイナー神父の指導によって、マザーは10年来苦しんできた霊的苦しみを、イエスの望みとして受け入れることができました。
1961年 10月、「神の愛の宣教者会」第1回総会、マザーを総長に選出。
1962年 4月、インド政府よりパドマ・シュリ賞を受ける。初めての大きな賞。/8月、フィリピンでマグサイサイ賞を受ける。
1965年 2月1日、「神の愛の宣教者会」教皇庁立の修道会となる。/ベネズエラのココロットに、海外で初の修道院を開くためシスター・ニルマラらを派遣。
教皇庁立の修道会になったことで、「神の愛の宣教者会」は海外に宣教師を派遣できるようになりました。最初に派遣された宣教師の1人は、後にマザーの後継者になったシスター・ニルマラでした。
1967年 3月、「神の愛の宣教者会」男子会創立。
⇒第三修練のためカルカッタを訪れていたイエズス会のアンドリュー神父は、マザー・テレサから依頼されて「神の愛の宣教者会」にブラザー部門を創立する決意をしました。
1968年 ローマに修道院を開設。
1969年 マルコム・マゲリッジ、映画『すばらしいことを神様のために』を公開。
⇒この映画と、同時に発売された同じタイトルの本のために、マザー・テレサの名前は世界中に知れ渡りました。
1971年 ヨハネ23世平和賞受賞。
1972年 母ドラナフィル、アルバニアにて帰天。
⇒マザーは、18歳で別れて以来、結局2度と母ドラナフィルと再会することはできませんでした。
1975年 10月、マイケル・ヴァン・デア・ピート神父に霊的苦しみを告白。
⇒ローマで黙想指導に来た「聖心の司祭会」のマイケル・ヴァン・デア・ピート神父にも、マザーは霊的な苦しみを告白しました。
1975年 カルカッタに長期療養者のための施設「プレム・ダン」開設。/『タイム』誌の表紙にマザーの肖像が使われる。
1976年 「神の愛の宣教者会」女子観想会創立。
1978年 東京の山谷に、「神の愛の宣教者会」のブラザーたちの家が開かれる。
1979年 「神の愛の宣教者会」男子観想会創立。
1979年 12月11日、ノーベル平和賞受賞。
②マザー自身の言葉
・「わたしは、愛と魂を求めるイエスの渇きを癒すことによって聖人になりたいです。もう一つの大きな望みは、わたしたちの会から多くの聖人を母なる教会に送り出すことです。」
・「わたしが世間にとって何ものでもなく、またわたしにとって世間が何ものでもないように、どうぞお祈りください。」
・「パドマ・シュリとマグサイサイは、多くの人、特に政府関係者が教会のインドに対する愛を知るために役立つでしょう。宣教師は、教会がその国に送ることができる最高の贈り物なのです。」

(5)ノーベル平和賞受賞から帰天まで
①年譜
1981年 4月22-28日、初の訪日。東京・大阪。/4月24日、東京に修道院開設。
1982年 4月21-28日、2度目の訪日。東京・大阪・福岡・長崎。
1983年 ローマ訪問中に、心臓の障害が発見される。
1984 10月13日、ニューヨークにて「神の愛の宣教者会」司祭会創立。
⇒1981年に始まった、聖なる司祭を教会に送るための運動「コーパス・クリスティ運動」は、司祭の修道会へと発展していきました。オブレット会出身のジョセフ神父が、司祭会の初代総長に選ばれました。
1984 11月19-25日、3度目の訪日。東京、仙台、岡山、広島、名古屋。
1986年 2月、教皇ヨハネ・パウロ2世、「死を待つ人の家」を訪問。/名古屋・七宝町修道院開設。
1989年 12月、心臓にペースメーカーを装着。
1992年 アメリカ・サンディエゴで心臓の手術を受ける。
1993年 3月25日、ベナレスにて「霊的遺言」と呼ばれる手紙を書く。
⇒先述の、『マザー・テレサ書簡集』に収められていますので、興味のある方はお読みください。
1993年 大分・別府市修道院開設。
1993年 8月30日、組織としての「マザー・テレサ共労者会」を解散する意向を表明。
⇒マザーのこの決定は、全世界の共労者に衝撃を与えました。マザーは、共労者たちが寄付金を使って会議をしたり、旅行したりすることに不満を感じていたようです。
1996年 心不全で入退院を繰り返す。
1997年 3月、シスター・ニルマラ、マザーの後継者に選ばれる。5月、最後のローマ、ニューヨーク訪問。9月5日午後9時半、カルカッタのマザー・ハウスで帰天。死因は、呼吸困難と多臓器不全。このときまでに、「神の愛の宣教者会」活動は世界123国に広がり、シスターの数は3,914人になっていた。9月13日、ネタジー室内競技場にて国葬。マザー・ハウスに埋葬。
⇒マザーが帰天したとき、自由主義諸国も共産圏の国々も、こぞってマザーのために追悼文を発表しました。インド政府は、マハトマ・ガンジーやジャワルハラル・ネルーの葬儀に使った台車をわざわざデリーの博物館からカルカッタに運び、マザーの遺体を運搬するのに使いました。各国から、元首の婦人クラスの人々が葬儀に参列しました。日本からは、当時の衆議院議長土井たか子氏が出席しました。
2003年 10月19日、ローマにて列福
②マザー自身の言葉
・「最初わたしが死にそうになったとき、聖ペトロは天国にはスラムがないからと言ってわたしが天国に入るのを断りました。ですが、今、天国はスラムの人たちで一杯なはずです。」
・「イエスの渇きだけが、イエスの渇きを聞くこと、感じること、心を尽くしてそれに応えることだけが、マザーが去った後もこの会を生き生きとしたものにするでしょう。それがあなたたちの生活となるなら大丈夫です。いつかマザーがあなたたちのもとを去るときも、イエスの渇きは決して去っていきません。貧しい人々の中で渇いているイエスは、いつもあなたたちのそばにいるのです。」

☆今回は年譜作成だけで時間切れになってしまいました。次回、必ず霊性の本体に入りたいと思います。

《参考文献》
・Kolodiejchuk, Brian, “Mother Teresa –Come Be My Light”, Doubleday, 2007.
・Muggeridge, Malcolm, "Something Beautiful For God", Fount, 1971.
・Chawla, Navin, “Mother Teresa –The Authorized Biography”, Penguin Books, 1993.
・Egan, Eileen, “Such A Vision Of The Street –Mother Teresa- The Spirit and The Work”, Doubleday,1985.
・Spink, Kathryn, “Mother Teresa –A Complete Authorized Biography”, Harper, 1997.
・Hunt , Dorothy, “Love : A Fruits Always in Season –Daily Meditations by Mother Teresa.”, Ignatius, 1987.
・Le Joly, Edward, “The Joy in Loving –Mother Teresa”, Penguin Books, 1996.
・『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』、ドン・ボスコ社、2001年。
・『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』、ドン・ボスコ社、2001年。
・『聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方』、ドン・ボスコ社、2002年。
・『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社、2003年。