マザー・テレサに学ぶキリスト教(2) マザー・テレサの生涯①

第2回「マザー・テレサの生涯①〜スラム街に出るまで」
 マザーはどのような時代を生きた人だったのでしょうか。どんな出来事が彼女の人生を変えていったのでしょうか。今回と次回の2回を使って、マザー・テレサの生涯を年譜で振り返ります。今回は、マザーが誕生してから、インドでスラム街に出るまでについてお話ししたいと思います。

1.誕生からロレット修道会に入会するまで
(1)年譜
1910年 8月26日、オスマン・トルコ帝国支配下バルカン半島マケドニアスコピエ市でアルバニア人の両親のもとに誕生。翌日、幼児洗礼を受ける。幼名はアグネス・ゴンジャ。父、ニコラ、母、ドラナフィル、姉、アガ、兄ラザール。
⇒意外なことかもしれませんが、1912年の第一次バルカン戦争までマケドニアオスマン・トルコ帝国の支配下にありました。マザーは、イスラム教の帝国で生まれたのです。スコピエは、イスラム教、ギリシア正教カトリックなど様々な宗教が混在する町でした。その中でもごく少数派のアルバニア人カトリック信者の家庭に誕生したマザーは、子どものころから他宗教の人々と平和に暮らしていく方法を自然に身につけていったのだと思います。
 マザーのお父さんニコラは、建築業と食品輸入業を営む商人でした。海外にまで商品の買い付けに出かけ、家を留守にすることも多かったようです。母のドラナフィルはとても信心深い人で、家に訪ねてくる貧しい人たちに食べ物やお金を与えたりするだけでなく、自分からも貧しい人たちの家を定期的に訪ねて行っていたそうです。マザーはそんな母のあとについて、子どものころから貧しい人たちの家を訪ね歩いていました。毎晩、居間に集まって家族一緒にロザリオを唱えるのが、その頃のボワジュー家の習慣だったと兄のラザールは後に語っています。
 子どもの頃のマザーは詩を書くのが趣味で、いつもノートを持ち歩いて詩を書いたり、書いた詩を人に読んで聞かせたりしていたそうです。そのうちのいくつかの作品は、地元の新聞に載るほど優れたものでした。マザーは、単純な表現を使って深い真理を突いた言葉をいくつも残していますが、その才能の萌芽はすでに子どものころからあったのです。
1912年 第一次バルカン戦争勃発。
1913年 第二次バルカン戦争勃発。
アルバニアの独立をめぐって、バルカン戦争が勃発しました。第二次バルカン戦争ではマザーの住むマケドニアの領有が戦争の焦点となり、マケドニアは激しい戦火に巻き込まれていきました。戦争の結果、アルバニア人の祖国であるアルバニアは独立を果たしましたが、マザーの住むマケドニアセルビア支配下に置かれることになりました。
1914年 第一次世界大戦勃発。
オーストリアの皇太子がサラエボセルビア人の青年によって暗殺されたのをきっかけに、ドイツ、オーストリア、イタリア、オスマン・トルコなどの国々と、イギリス、フランス、ロシアを中心とした国々の間に戦争が勃発し、マザーの住むバルカン半島全体が再び戦火に覆われることになりました。
1916年 初聖体を受ける。
⇒マザーは、5歳半のときに初聖体を受けました。
1917年 父、ニコラ・ボワジュー死去。
スコピエの市会議員も務めていたニコラは、アルバニア人国家の拡大を求める政治運動に関連して毒殺されたとも言われています。ニコラの死後、財産は商売の共同経営者によって持ち去られてしまいました。3人の子どもと共に残されたドラナフィルは、刺繍した布を商うことで生計を立てていきます。
1918年 第一次世界大戦終結
(2)マザー自身の言葉
「わたしの両親はアルバニア人です。第一次世界大戦の前に、その頃まだユーゴスラビアではなく、そして今はもうユーゴスラビアではない場所で生まれました。多くの意味で、わたしは自分の国を持たないとはどういうことかを実感しています。」
「初聖体を受けた5歳半のときから、わたしの心には人々の魂への愛が燃え続けています。」
「貧しい人たちに自分を捧げたいと思うようになったのは、ユーゴスラビアスコピエで、わたしがまだ12歳のときでした。わたしは家に両親と一緒に住んでいました。わたしたち子どもはカトリックでない学校に通っていましたが、教会には子どもたちが神の呼びかけに応えて召命を生きるのを助けてくれるとてもいい司祭たちがいました。貧しい人たちに仕えるよう神が呼んでおられると感じたのは、そのときが初めてでした。1922年のことです。」
「はじめの頃、わたしがまだ12歳から18歳頃までは、修道女になりたくありませんでした。わたしたちの家族はとても幸せだったからです。でも18歳のときに、家を離れて修道女になる決心をしたのです。それ以来40年間、一瞬たりとも自分のしたことが正しかったかどうか疑ったことはありません。それは、神の御旨だったのです。神がお選びになったのです。」
「わたしは宣教師になりたかったのです。出かけて行って宣教地の人々にキリストの生命を伝えたかったのです。その頃、ユーゴスラビアから数人の宣教師がインドに派遣されていました。彼らはわたしに、ロレット会の修道女たちがカルカッタやその他の場所で働いていると教えてくれました。わたしはベンガル宣教を志願し、1929年ロレット会からインドに派遣されたのです。」

2.ロレット修道会入会からスラム街に出るまで
(1)年譜
1928年 10月12日、ロレット修道会入会。
⇒18歳のとき、マザー・テレサマケドニアを離れ、アイルランドのラスファーナムで「ロレット修道会」に入会しました。ロレット修道会は、女性であってもイエズス会員のように教会に奉仕したいと望んだ修道女、メリー・ウォードによって17世紀に創立された修道会です。
 イエズス会に委ねられた小教区に属する信徒だったマザーは、子どものころから「マリアの信心会」に参加し、いつでも教会にいると人々から言われるくらい熱心に活動していました。この会は、イエズス会員たちが全世界に広めた信徒の信心団体です。
 当時、マケドニア地方からたくさんのイエズス会員がインドのビハール州に派遣されていました。マザーが所属する教会の主任司祭ジャンブレコビック神父はとても海外宣教に関心を持った人だったので、彼らから霊的指導を受けていたマザーは、宣教したちが故郷に宛てて書いた手紙を目にする機会がたびたびありました。その手紙を通して、インドの貧しさの現実に触れたマザーは、自分もインドで貧しい人たちに神の愛を伝えたいと思うようになりました。ジャンブレンコビック神父にそのことを打ち明けたところ、彼はイグナチオ霊性を生き、インドでも教育活動をしている女子修道会であるロレット修道会をマザーに紹介しました。マザーは、黙想会に参加してよく祈ったあと、ロレット修道会に入会することを決心しました。
 旅立ちのとき、母のドラナフィルは「イエスの手をしっかり握って、いつでもただイエスと共に歩いて行きなさい。前を向いて歩きなさい。もし後ろを見るなら、あなたは後退することになります」と言ってマザーを見送ったそうです。
1928年 12月1日、インドに旅立つ。
⇒ラスファーナムで2ヵ月英語を勉強した後、マザーは船でカルカッタに向けて旅立ちました。スエズ運河を通ってインド洋に出る航路でした。
1929年 1月6日、インドに到着。ダージリンで修練期に入る。
修道院に入ると、まず修練期という期間に入ることになります。およそ2年のあいだ世間との連絡を絶ち、修道院に籠って勉強と労働の日々を過ごすのです。この期間に修練者たちは、自分と神様との関係の土台を所属する修道会の霊性に基づいて堅固に構築していくことになります。マザーは、カルカッタから200キロほど北にあるヒマラヤ山脈の麓の町、ダージリンで2年間の修練期を過ごしました。
1931年 5月25日、ロレット修道会での初誓願。修道名はテレサカルカッタに移動して、セント・メリー・ベンガル中等学校の教員として働く。
⇒修練期が終わると、初誓願式が行われます。清貧・貞潔・従順という3つの修道誓願を立てることによって、神様に自分の生涯を捧げるのです。但し、この段階での誓いはまだ期限付きのものです。修道女たちは毎年、自分の決意を確認しながら誓願を更新していくことになります。この段階を、有期誓願期と呼びます。
1937年 5月24日、ロレット修道会での終生誓願。「マザー・テレサ」誕生。
⇒有期誓願期が終わると、今度はいよいよ修道会を通して一生を神に捧げることを誓う終世誓願を立てることになります。この誓願を立てると、もう修道女として一人前です。当時、ロレット修道会では終世誓願を立てた修道女を「マザー」と呼んでいました。マザーが「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのはこのときからです。
1941年 12月8日、太平洋戦争勃発。
1942年 4月、「神が望むものを拒まずに差し出す」という私的誓願宣立。
⇒マザーは、最後のときまでこの誓願を忠実に守りとおしました。神の望みに対して、マザーは一度も「いいえ」と答えたことがありませんでした。マザーがせっかちだったのも、神の望みにすぐ応えたい一心からだったと言われています。
 当時、何人かの聖人たちが私的誓願を立てたことが知られていたこと、アルバニア人の間に「ベサ」という固い約束の習慣があったことが、マザーの私的誓願の背景にあるようです。
1942-43年 ベンガル大飢饉で2,000,000人以上が死亡。
⇒日本人のほとんどが知りませんが、日本が引き起こした戦争の結果として、ベンガル地方にこのような悲劇が起こっていたのです。
1944年 セント・メリー・ベンガル中等学校の校長に就任。
⇒日本軍がインド方面に侵攻してきたことで引き起こされた非常に困難な状況の中で、マザーの無私な奉仕の精神はひときわ輝いていたようです。当時の彼女の様子を知る同僚の修道女は、「マザーはまったく無私の人でした。彼女の自己犠牲は人並みはずれていました。神様への愛のためなら、彼女はどんなことでもし、どんな辱めや苦しみにも耐えたのです」と証言しています。
1945年 8月15日、太平洋戦争終結
⇒戦争中、日本軍がカルカッタを空襲したこともあったそうです。マザーは後年、日本人に深く好意を寄せていましたが、その背後にはかつて敵だった日本人に対する寛大な愛情があったのではないかと思われます。
1946年 8月16日、カルカッタ大虐殺。
⇒インドとパキスタンの分離独立に伴って、カルカッタヒンドゥー教徒イスラム教徒の間に激しい争いが起こりました。非常に危険な状況であったにも拘らず、マザーは子どもたちの食料を集めるため、街に出ていきました。
1946年 9月10日、ダージリンへ向かう列車の中で、神の呼びかけを聞く。この後、たびたび神の呼びかけを聞くようになる。
⇒このとき、マザーは「召し出しの中の召し出し」を受けたと証言しています。インドの貧しい人々のために働くよう、イエスから新たな使命を与えられたのです。このときマザーは、イエスが十字架上で「わたしは渇く」と言っているのを聞いたようです。
 この体験以降、マザーはたびたびイエスの声を聞いたり、ビジョンを見たりするようになりました。イエスはマザーに、インド人の少女たちによるインドの貧しい人たちのための女子修道会を創立し、貧しい人々の魂を救うよう求めたのです。マザーは住み慣れた修道会を離れてインド人と同じ生活をし、貧しい人々に仕える生活に入ることをしばらくのあいだ躊躇しましたが、ついにイエスの呼びかけに応える決心をしました。
 このときの様子は、マザーがペリエール大司教に宛てた手紙の中に克明に記されています。拙訳、『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社刊に収められていますので興味のある方はお読みください。
1947年 1月、エクセム神父との関係を疑われ、アサンソールへ移動。/7月、誤解が解けてカルカッタに戻る。/8月15日、インド独立。
⇒イエスの呼びかけを聞くようになって以来、マザーは霊的指導司祭のエクセム神父と頻繁に話すようになりました。事情を知らない周囲の修道女たちは、そのことを怪しみ、長上に報告したようです。半年後、総会長の介入によってこの誤解は解け、マザーはカルカッタに戻ることができました。
 マザーは、アサンソールでイエスと共に静かに過ごす恵みのときを過ごすことができたと後に回想しています。アサンソールで過ごした日々は、マザーにとって「霊的苦しみ」の時期に入る前に与えられた、つかの間の至福のときだったようです。
1948年 1月6日、カルカッタ大司教ペリエール師、マザーがスラムの人々のために働くことを許可。
イエズス会員であるペリエール師は、マザーの希望を聞いてから慎重に識別を重ね、ついにマザーが貧しい人々のために働くために手続きを進めていくことを許可します。
1948年 8月8日、教皇ピオ12世、マザーが院外居住生活に入ることを許可。
⇒終世誓願を立てた修道女であるマザーが修道院の外に出て働くためには、教皇様の許可が必要でした。当時、修道女が修道院の外に出て働くことは教会法によって禁止されていたからです。
 マザーは、イエスに呼ばれている以上失敗はありえないと確信して、還俗の許可を教皇様に求めました。しかし、教皇様はマザーに、とりあえず修道女のままで1年間だけ貧しい人たちのために働く許可を与えました。ロレット修道会の創立者メリー・ウォードもかつて教皇庁に同じ許可を求めましたが、与えられませんでした。数世紀を経ているとはいえ、<マザーにこの許可が与えられたのは異例のことだったと言えます。
(2)マザー自身の言葉
「わたしは、ロレット修道会に入会し、いつの日か宣教師になって、わたしたちのために命を捧げてくださったイエスのために働きたいと思っています。これまでに高校の第5学年までを終えました。語学について言えば、母国語であるアルバニア語とセルビア語ができます。フランス語は少しできますが、英語はまったくできません。」(ロレット修道会の長上に宛てた手紙から)
「わたしたちの乗った船が岸に着いたとき、わたしたちは心の中で『テ・デウム』を歌いました。そこでわたしたちを待っていてくれたインド人のシスターたちと一緒に、言い表し難いほどの喜びに満たされて、わたしたちはベンガルの大地に初めの一歩を踏み出しました。」
「わたしは何よりも教えることが大好きでした。ロレットの学校で、わたしはベンガル語による教育を担当していました。あの頃、今わたしと一緒にいる若いシスターたちのほとんどはその学校の生徒でした。わたしは、彼女たちを教えていたのです。」
「道に出ると、あちこちに死体が横たわっていました。そのとき、兵士を満載したトラックがわたしの前に止まり、道に出てはいけないと言いました。…兵士たちは米を持っていました。彼らはそのままトラックで学校までわたしを連れて帰り、米の袋をわたしたちのために置いて行ってくれました。」カルカッタ大虐殺に際して)
「1946年、わたしは黙想をするためにダージリンに向かっていました。その列車の中で、すべてを捨てて、貧しい中でも最も貧しい人々のうちにおられるキリストに仕えるために、キリストのあとについてスラムに出るようにという呼びかけを聞いたのです。わたしには、それが神の御旨であることがわかりました。ですから、キリストについていくほかなかったのです。」
「それは、わたしの召命の中で与えられた更なる呼びかけでした。第2の呼びかけだったのです。それは、わたしがとても幸せに暮らしていたロレットでの生活さえも放棄し、貧しい中でも最も貧しい人たちに仕えるため路上に出るようにとの呼びかけでした。」
「わたしを動かしていたのは、おそらくある力でしょう。つまり、神の霊です。神が何かを欲していらっしゃることが、わたしにはわかったのです。」
「アサンソールでは、まるで主がわたしに自分をまるごと下さったようでした。ですが、甘美で、慰めに満ち、主と固く結ばれたその6カ月は、あっという間に過ぎてしまいました。」
「わたしが教皇ピオ12世に手紙を書くと、返事が4月12日に来ました。教皇様は、わたしが禁域に拘束されない修道女として修道院の外に出ることをゆるして下さいました。修道者としての生活は送りますが、(修道院長ではなく)カルカッタ大司教に対して従順を守ることになったのです。」