バイブル・エッセイ(49) 灰の水曜日

 このエッセイは、2月25日「灰の水曜日」のミサの中で行った説教に基づいてます。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:1-6)

 四旬節は、十字架上のイエスの苦しみと一つになっていくためのときです。イエスは今から2000年前に十字架上で死にましたが、イエスの苦しみは今も続いています。十字架上でのイエスの苦しみは、過去のことではないのです。
 イエスの十字架上での苦しみ、それは愛してやまないユダヤの人々から迫害され、信頼していた弟子たちにも裏切られ、最後に自分の父である神にさえ見捨てられるという苦しみでした。今日、わたしたちの身の回りには、人々に愛を求めても与えられず、家族からも見離され、神からさえも見捨てられたと感じて苦しんでいる人たちがたくさんいます。その人々の苦しみの中で、今もイエスは苦しみ続けているのです。誰からも愛されていないと思いこんで苦しんでいる人がこの地上に一人でもいる限り、イエスの十字架上での苦しみはいつまでも終わることがないのです。
 わたしたち自身の中にも、同じような苦しみが多かれ少なかれあるでしょう。自分は誰からも大切にされていない、愛されていないと思ってしまうときが、人生の中にはあると思います。そのようなとき、イエスはわたしたちの中でも十字架上の苦しみを味わっています。
 十字架上でのイエスの苦しみと一つになるとは、多くの人々が味わい、またわたしたち自身もときに味わう「誰からも愛されない」という苦しみを、イエスとともに担っていくことだと思います。人々の苦しみに共感し、彼らの苦しみを自分のものとして味わうとき、わたしたちは十字架上でのイエスの苦しみを味わい、十字架上のイエスと一つになっていくことができるのです。
 イエスの苦しみを担い、人々ともに苦しむことは神様の望みでもあります。それは、苦しんでいる人々を愛するということに他ならないからです。この四旬節のあいだ、偽善者のように人に見せるために善行をするのではなく、十字架上のイエスの苦しみを共に担うために喜んで善行に励みたいと思います。
※写真の解説…夕暮れ時の石神井公園三宝寺池