バイブル・エッセイ(50) 荒野の40日

 このエッセイは、3月1日に海星病院の聖堂で行ったミサでの説教に基づいています。

 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:12-15
)
 福音宣教を始める前に、イエスは荒野に退き、そこで誘惑を受けられました。なぜそんな必要があったのでしょうか。なぜ霊はイエスを荒野に向かわせたのでしょうか。
 それは、イエス自身が人間としての弱さと向かい合う中で、他に何もなくても神様が一緒にいてくれればそれだけで幸せだ、神様がわたしたちを愛してくださっていることこそ福音だと確信する必要があったからではないかとわたしは思います。イエスが誘惑を受けたユダの荒野は、どこまでも見渡す限りの荒れ地です。乾いた土、そしてところどころに点在する岩や灌木だけしかありません。岩や灌木の陰には蛇やサソリ、トカゲなどが潜んでいます。高いところに上がると、遠くに死海が見えます。そのような状況下で自分自身の弱さに直面し、それを一つひとつ克服していく中で、イエスは神様だけにすべての希望を置くことができたのではないでしょうか。
 今ここにいらっしゃる多くの方は、入院生活を送っておられます。入院生活はある意味でイエスの荒野の体験と重なるのではないかと思います。わたし自身、かつて長期で入院したことがありますので、気持ちが分かるような気がします。入院が長引いてくると、「自分の将来は一体どうなるんだろうか」、「いつになったら元気になれるのだろうか」という不安が湧き上がってきます。入院して3ヵ月もすると、お見舞いに来てくれる人もしだいに少なくなり「みんなわたしのことを見捨ててしまったのだろうか」、「どうして今日も誰も来てくれないのだろう」などと考えるようにもなります。自分の将来を自分で決めたいという思いや、人々から愛されたいという思いが、弱さとして湧きあがってくるのです。
 そのようなとき「だいじょうぶ、先のことは神様がすべてよくしてくださる」、「誰も来てくれなくても、神様が一緒にいてくださるならばそれで幸せだ」と答えられるようになっていきたいものです。実際、神様は自分の子どもたちのために一番いい道を準備してくださいますし、神様がわたしたちから離れることは片時もないのです。
 荒野の体験を通して神様と一緒に生きる素晴らしさに気づくことができれば、そのときわたしたちはイエスと共に力強く福音を人々に語ることができるようになるでしょう。「神様がいてくださるんだから、何も心配することはない。わたしたちは救われている」と確信をもって話すことができるようになるでしょう。これから始まる四旬節を、わたしたち自身の荒野の体験にしていきたいものです。 
※写真の解説…エリコから見た「試みの山」。イエスが悪魔から誘惑を受けた場所だと言われている。中腹に修道院がある。