入門講座(32) マザー・テレサの霊性② 「喜びの使徒」

《今日の福音》マルコ9:30-37
 イエスが自らの死を予告する場面が描かれた直後に、弟子たちが自分たちの間で誰が一番偉いのかを議論する場面が描かれています。弟子たちの心理状態が如実に反映されていて、興味深い箇所です。
 まずイエスが自らの死について予言したとき、弟子たちは「怖くて尋ねられなかった」と書かれています。弟子たちは、奇跡によって人々を癒し権威のある言葉で人々に語るイエスは受け入れられても、十字架上でみじめに殺されていくイエスを受け入れることができなかったのです。次に、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのかと議論を始めます。ここで、弟子たちの心の中に世俗的な名誉への執着があることが明らかになります。どうやら弟子たちは、人々から「えーっ、あのイエス様のお弟子さん」と言って誉めてもらいたかったようです。十字架上で人々から蔑まれて死んで行くイエスに従う覚悟は、まだなかったのです。
 このような弟子たちに対して、イエスは無私の心で人々に仕える者こそがイエスに一番近い者、すなわち「偉い者」だと教えます。イエスは、無力な子どものように自分のすべてを相手にゆだね、そうすることで人々に仕える方だったのです。

マザー・テレサ霊性
 前回、マザー・テレサの生涯を年譜によって振り返ってみました。今回は、彼女の言葉を手がかりにしながら、マザーと神様とのあいだにどのような関係が結ばれていたのかを考えてみたいと思います。
マザーは、ある手紙の中で「喜びの使徒になりたいという決意を表明していますが、他の手紙では自分は「暗闇の聖人」と呼ばれるだろうとも書いています。どうもマザーの中には、神を愛する喜びと、神から見放された闇が同居していたようです。マザーの中で一体何が起こっていたのでしょうか。

2.「喜びの使徒
 マザーは1957年にペリエール大司教に宛てた手紙の中で「喜びによってイエスの聖心を慰めるために、『喜びの使徒』になりたい」という決心を書き記しています。生前、マザーと接したことがある人は、誰でもマザーが「喜びの使徒」だったことを認めるでしょう。マザーの笑顔には、いつでも心の底からの喜びが溢れていたからです。では、この喜びはどこから生まれてきたのでしょうか。なぜマザーは、カルカッタでの厳しい生活の中でも喜びを持ち続けることができたのでしょうか。
(1)イエスを愛する喜び
 マザーは、誰かから好きな言葉を書いてくださいと頼まれると、ほとんどの場合次のように書いていました。
 「イエスを愛する喜びを、いつも心に持ち続けなさい。そして、その喜びをあなたが出会うすべての人と分かち合いなさい。」
 マザーの喜びの源が、イエスへの愛にあったことがこの言葉から分かります。最愛の伴侶であるイエスといつも一緒にいられるのだから、不幸である理由がないとマザーは思っていたようです。誰でも愛する人と一緒にいれば自然に喜びが全身から現れてきますが、マザーの場合もそうだったようです。
 マザーはシスターたちにも次のように勧めていました。
 「あなたたちは、貧しい人たちのための太陽になりなさい。行く先ざきで喜びの光を輝かせ、彼らの心を温めるのです。あなたたちと出会った人が、別れるときにはあなたちと出会う前より幸せになっているようにしなさい。」
 イエスを愛する喜びに溢れたシスターだけが、本当の「神の愛の宣教者」になることができるとマザーは考えていたようです。
(2)イエスとの結びつき
 もしイエスが実際に今生きている人で、マザーと一緒に住んでいたのならマザーの喜びは理解しやすいでしょう。ですが、イエスはもう2000年も前に死んだ人で、実際に話すこともできなければ触ることもできません。それにもかかわらず、なぜマザーはイエスを愛する喜びを保ち続けることができたのでしょうか。マザーとイエスのあいだに、どのような結びつきがあったのでしょうか。マザーとイエスを結びつけていたのは、日々の祈りの中でのイエスとの出会いと、日々の生活の中での絶え間ない自己犠牲、そしてそれらの頂点としてのミサだったのではないかとわたしは思います。
①祈り
i.「魂の目」
 1993年に書かれた「マザーの霊的遺言」と呼ばれる手紙の中で、マザーは次のように語っています。
 「あなたたちの中に、まだイエスとほんとうに出会っていない人がいるのではないかと心配です。わたしたちは聖堂でときを過ごしますが、あなたたちはイエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを自分の魂の目で見たことがありますか。あなたたちはほんとうに生きているキリストを知っていますか。」
 マザーは修道女たちに「魂の目」を開いてイエスの姿を見るよう呼びかけています。マザーにとって、イエスは単に頭の中だけで生きている想像上の存在などではなく、生きた人間と同じように、あるいはそれ以上にリアルに見ることのできる「ほんとうに生きている」存在だったのです。
鄱.「魂の耳」
続けてマザーは、次のように語ります。
 「こころの静けさの中でイエスの呼びかけを聞くまでは、貧しい人々の心の中でイエスが『わたしは渇く』と言っておられるのを聞くことはできません。『ほんとうに生きている人』であるイエスとの、日々の親しい交わりをあきらめてはいけません。イエスは単にあなたが思い浮かべているだけの人物ではないのです。イエスが『あなたを愛している』と言うのを聞かずに、たとえ一日たりとも生きながらえることができません。」
 「イエスの言葉、それは過去からのものではありません。ここで今、生き生きとあなたたちに語りかけられる言葉なのです。それを信じますか?もし信じるならば、あなたたちはその言葉をこころで聞くでしょうし、イエスの存在を感じるでしょう。」
 マザーは、「魂の目」を開いてイエスを見るだけでなく、「魂の耳」を傾けてイエスの声を聞くことも修道女たちに勧めているのです。もし「魂の耳」を傾けさえするならば、伴侶であるイエスはいつでもあなたがたに優しく「あなたを愛している」とささやきかけているというのです。マザーにとって、イエスの存在がそれほどまでに身近で、リアルなものだったということがこの言葉からわかります。
鄴.回心の呼びかけ
 ダージリンに向かう列車の中で神の呼びかけを聞いたあと、マザーがカルカッタ大司教ペリエール師に宛てた手紙には、マザーがどれほどはっきりとイエスの呼びかけを聞いていたかが赤裸々に語られています。
 「イエスはすべての祈りと、そして聖体拝領のあいだに絶え間なく呼びかけています。『あなたは拒むのですか。あなたの魂には迷いがあるのですか。わたしは自分のことを考えずに、あなたのために、自由に十字架上で自分を捧げました。あなたはどうするのですか。あなたは拒むのですか。』」
 ロレット修道会を出て貧しい人々のために働くことをためらうマザーに、イエスがはっきりした声で繰り返し決意を促していく様子がこの手紙には書かれています。祈りと聖体拝領の中で、マザーは自分に語りかけるイエスの声に「魂の耳」を傾けていたのです。自分自身が人々のために自分のすべてを差し出したように、あなたも自分のすべてを差し出しなさいと語りかけるイエスの声を、マザーは「魂の耳」ではっきりと聞いたのです。
鄽.リアルな存在としてのイエス
 マザーの書き残した手紙を読むと、マザーとイエスとの関係が、少なくともある時期とても親密なものだったことがよく分かります。
 「アサンソールでは、まるで主がわたしに自分をまるごと下さったようでした。ですが、甘美で、慰めに満ち、主と固く結ばれたその6カ月は、あっという間に過ぎてしまいました。」
 アサンソールでイエスと共に過ごした日々は、マザーにとってまるでイエスとの新婚旅行のような日々だったようです。アサンソールでの祈りの中でマザーは、イエスの存在を「ほんとうに」身近に感じ、「生きている」イエスと共に暮らす体験をしていたのです。イエスを生身の恋人や夫の存在以上に身近でリアルな存在として愛する喜びを、マザーは体験していたようです。
②自己犠牲
 マザーとイエスをしっかり結びつけていたもう一つの絆、もう一つの喜びの源は、日々の生活の中でイエスの望むままに自分をイエスに捧げつくすことにあったようです。そのことをマザーは、「祝福された服従」と呼んでいました。日常生活の中での犠牲を通して自分をイエスに捧げることから、マザーはイエスと一つに結ばれる喜びを感じていたのです。
鄯.私的誓願
 マザーの自己犠牲がどのようなものだったかを理解するためには、彼女が1942年に立てた私的誓願の内容を知る必要があると思われます。彼女がこのような誓願を立てていたことは、“COME BE MY LIGHT”の出版によって初めて公に知られるようになりました。
 誓願の内容は、「大罪の苦しみにかけて、神が望むものはなんでも神に差し出す。神に対して何も拒まない」というものだったそうです。
 「神がわたしたちに御自身をお与えになったのです。わたしたちに対して何の借りもない神が御自身そのものをわたしたちに与えようというときに、わたしたちは自分の一部分を差し出すだけでよいのでしょうか?」
 そう考えたマザーは、霊的指導者と相談の上で秘密裏にこの私的誓願を立て、生涯守り通したのでした。1947年にペリエール大司教に宛てて書いた手紙の中で、マザーは祈りの中でイエスが「あなたは拒むのですか」と繰り返し語りかけたと述べていますが、その呼びかけはマザーが私的誓願を守るようにとの促しでもあったのです。
 現代では私的誓願という習慣はあまり行われていませんが、1940年代頃には何人かの聖人たちが私的誓願を終世守り通すことで聖性に達したということが伝記などを通して知られていたそうです。また、アルバニア民族の習慣である「ベサ」という誓いの様式も、マザーが私的誓願を立てた理由の一つではないかと考えられています。「ベサ」として誓ったことは、たとえ自分が殺されても守るというのがアルバニア人の習慣だったそうです。このような習慣になじんでいたマザーにとって、私的誓願を立てるということは違和感のないことだったのでしょう。
鄱.自分を捧げる喜び
 マザーにとって、この誓願を守ることはイエスを愛する喜びの源になっていきました。マザーは「誰かが悲しそうな顔をしているのを見るとき、わたしはいつも、彼女は何かをイエスに差し出すのを拒んでいるのだと思います」と語っています。日々の生活の中での体験に基づいて、何かを自分のものにしようとして執着するときそこから悲しみが生まれ、何かを神様のために捧げるときそこから喜びが生まれるとマザーは思っていたようです。
 マザーは「快活さは、犠牲や神との絶え間ない一致、熱心な信仰、寛大な心などを覆い隠すマントです」とも語っています。自己犠牲によって生まれる神との一致こそ、喜びに満ちた快活さの源だということでしょう。イエスに自分を捧げれば捧げるほど、マザーはイエスとの深い一致の中で喜びに満たされていったのです。
マザーは、修道女たちにも次のように勧めています。
 「イエスの喜びを、力として保ち続けなさい。幸せで、落ち着いていなさい。イエスが与えるものは何でも受け取り、イエスが取り去るものは何でも笑顔で差し出しなさい。あなたはイエスのものなのです。『わたしはあなたのものです。もしあなたがわたしを切り刻むのなら、その一片一片はすべてあなただけのものです』とイエスに言いなさい。」
 すさまじいほどの言葉ですが、マザーが好んで使っていた表現です。自分のすべてを、徹底的に捧げつくすことがイエスを愛する喜びの源であることを修道女たちに教えるために、マザーはあえてこのような表現を使ったのだと思います。
③ミサ
 「わたしたちは毎日、御聖体の大切な恵みをいただいているのですから、その恵みの中でのキリストとの交わりが、まずわたしたちの祈りです。キリストへの愛、キリストのそばにいることの喜び、キリストの愛への自己放棄、それらこそがわたしたちの祈りなのです。祈りは完全な自己放棄、キリストとの完全な一致以外の何ものでもないからです。これこそがわたしたちを、世界のただ中にいながらも観想者とするのです。」
 この言葉から、マザーにとって日々の祈りと自己犠牲の頂点にミサがあったことが分かります。マザーにとってミサとは、御聖体のうちにイエスを見、御聖体を通してイエスの語りかける声を聞き、「本当に生きている」存在としてのイエスに出会う祈りの頂点であると同時に、イエスに自分のすべてを捧げつくし、イエスと一致する自己犠牲の頂点でもあったのです。日々のミサの中で、マザーのイエスを愛する喜びは頂点に達していたと言ってもいいでしょう。マザーは、次のようにも述べています。
 「ミサは、わたしを支えている霊的な糧です。ミサなしでは、わたしは人生の一日も、あるいは一時も過ごすことができなかったでしょう。ご聖体のうちに、わたしはキリストをパンの形で見ます。スラムでは、キリストを貧しい人々のこころ痛む姿の中に見ます。傷ついた体、子どもたち、そして死にかけた人々の中にです。だからこそ、わたしはこの仕事ができるのです。」
 御聖体をいただくときに頂点に達したマザーのイエスを愛する喜びは、そのまま貧しい人々の中におられるイエスに向けられていきました。ミサで感じたイエスを愛する喜びが、スラム街での彼女の活動を支え、またスラム街でのイエスとの出会いが、ミサでのイエスを愛する喜びをより深いものにしたのだろうと思います。

(3)まとめ
 マザーの喜びの源、「イエスを愛する喜び」の源が日々の生活の中での祈りと自己犠牲、そしてそれらの頂点としてのミサにあったことが以上から分かると思います。
 ですが、“COME BE MY LIGHT”に収められたマザーの書簡を読んでいくと、マザーには普通の人が体験できないような形で神から特別の恵みが注がれ、それがもう一つの喜びの源になっていたことが分かります。それが、いわゆる「魂の闇」の体験です。このことについては、次回詳しくご説明しようと思います。

《参考文献》
・Kolodiejchuk, Brian, “Mother Teresa –Come Be My Light”, Doubleday, 2007.
・Muggeridge, Malcolm, “Something Beautiful For God”, Fount, 1971.
・Chawla, Navin, “Mother Teresa –The Authorized Biography”, Penguin Books, 1993.
・Egan, Eileen, “Such A Vision Of The Street –Mother Teresa- The Spirit and The Work”, Doubleday,1985.
・Spink, Kathryn, “Mother Teresa –A Complete Authorized Biography”, Harper, 1997.
・Hunt , Dorothy, “Love : A Fruits Always in Season –Daily Meditations by Mother Teresa.”, Ignatius, 1987.
・Le Joly, Edward, “The Joy in Loving –Mother Teresa”, Penguin Books, 1996.
・『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』、ドン・ボスコ社、2001年。
・『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』、ドン・ボスコ社、2001年。
・『聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方』、ドン・ボスコ社、2002年。
・『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社、2003年。