バイブル・エッセイ(81) 悲しむ人の幸い


エスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 (マタイ5:1-12)

 マザー・テレサが、修道生活での体験に基づいて次のように語っています。「悲しそうな顔をしている人を見ると、この人はまだ何かを手放すことができないのだなとわたしは思います。」
 何気なく語られた一言なのかもしれませんが、この言葉は人間の悲しみの本質を鋭く突いているとわたしは思います。悲しみの中にあるとき、わたしたちは実は神の前で何かを手放せていないのです。悲しみのほとんどは、何かにしがみつくことから、神ではなく被造物に執着することから生まれてくるのです。
 たとえば、仕事か何かで失敗して悲しみにくれているとき、わたしたちは実は心の中で本来あるべき素晴らしい自分の人生を勝手に作り上げて、それにしがみついているのです。そして、不運にもそのようになれなかった自分を悲しみ、嘆いているのです。「自分は有能な人間であるはずだ、もっと立派な人生を送り、人々から称賛されるべき人間だ」そのような思いを手放し、「すべてのことは失敗したけれども神様はこんな自分にも豊かな恵みを注いで生かしてくださる、それだけで十分だ」と思えるようになれば、そこに幸せが訪れます。
 たとえば、誰かとのつらい別れを体験して悲みの底に沈んでいるとき、わたしたちはその誰かにしがみついているのです。その誰かが自分から勝手に取り上げられたことを悲しんでいるのです。「あの人とずっと一緒にいたかった」という思いを手放し、「短い間だったけれども、こんな自分にあの人が与えられたとはなんと大きな恵みだろう」と思えるようになれば、そこに幸せが訪れます。
 では、どうしたら手放せるのでしょう。どうしたらありのままの人生を受け入れられるのでしょう。そのためには、イエスと出会う以外にないと思います。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」とイエスはおっしゃいます。祈りの中で、日々の生活の中で、こう語るイエスの愛に満ちたまなざしにに出会うことができれば、わたしたちは自分の人生をありのままに受け入れ、自分で作りだした悲しみから解放されるでしょう。イエスの温もりの中で深い慰めに満たされるでしょう。そこに本当の幸せがあります。被造物への執着を捨て、ただイエスの愛だけを求めて生きたいものだと思います。
※写真の解説…大原三千院にて。雨に濡れたモミジの葉。