バイブル・エッセイ(96)からし種ほどの信仰


 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:14-20)
 連れてこられた子どもの苦しみを見て、弟子たちはなんとかして治してあげようと懸命に試みましたがうまくいきませんでした。なぜでしょうか。それは、彼らに信仰がなかったからです。
 では、信仰とは一体何でしょうか。それは、自分の力により頼まず、全てを神にゆだねる心だと思います。人間の力によってどれほど懸命に治癒の努力をしたとしても、それだけで悪霊を追い出すことはできません。自分の無力さを認め、「その子をわたしのところに連れてきなさい」と言うイエスに苦しむ相手をゆだねて祈るとき、そのとき初めて神の大いなる力が働いて悪霊を追い出してくださるのです。
 これは、他人の苦しみだけでなく自分自身の苦しみについても言えます。自分の力でなんとか苦しみを取り除こうとしている限り、わたしたちは苦しみから抜け出すことができません。信仰がないからです。
 からし種一粒ほどの信仰」によってイエスに苦しみを委ねることができれば、ほとんどの苦しみは消えてしまうでしょう。どんなにやってもうまくいかないという焦りや絶望の闇が消え、すべてのことが信仰の光の中で別の姿に見えてくるからです。「山が動く」どころの騒ぎではなく、世界全体が変わってしまうのです。
 イエスを信頼して、隣人の苦しみも、自分自身の苦しみもすべてイエスにゆだねることができるよう、このミサの中で一緒に祈りましょう。
※写真の解説…山百合。六甲山高山植物園にて。