バイブル・エッセイ(253)本当の断食


本当の断食
 ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」(マタイ9:14-15)
 この時期、ヨハネの弟子たちがイエスに言ったのと同じような言葉を教会の中でも聞くことがあります。断食して気が立ってくるからでしょうか、他の人がどのくらい食べているかが気になるようなのです。「わたしが断食しているのに、誰それさんはなぜ食べているのか」というような義憤から始まり、「誰それさんは断食しないのよ」という悪口に発展、ついには「断食しているわたしは誰それさんよりも優れている」という傲慢に陥っていく場合さえあります。これでは、一体何のために断食を始めたのかわかりませんね。
 そもそも、わたしたちは何のために断食するのでしょう。それは、わたしたちの元から取り去られた最愛の花婿、イエスが十字架上で苦しんでおられるからです。その苦しみを目の当たりにし「イエスを一人ぼっちで放っておくわけにはいかない」、「その苦しみをほんのわずかでも共に担いたい」と願うからこそ、わたしたちは断食するのです。断食競争をして、信心深さを誇るためではありません。断食は、自分のためではなく、ただイエスの苦しみのために捧げられるものなのです。
 イエスは、貧困や孤独、飢えなどの苦しみを抱えたわたしたちの隣人たちの中でも苦しんでおられます。人々の中にイエスの苦しみを見、その苦しみをほんのわずかでも軽くしたいという一心から時間や力、心を差し出すときわたしたちはやはり断食しているのです。本当の断食とは、イエスの苦しみ、人々の苦しみをほんのわずかでも軽くしたい、共に味わいたいという一心から自分自身を差し出すことなのです。
 そのようにして、断食と奉仕は直結した行いになります。十字架上で苦しむイエスのために断食しながら、隣人の中で苦しむイエスを見捨てるということはありえません。そのことをしっかり胸に刻みながら、本当の断食を続けていきましょう。
※写真の解説…フィリピン、スモーキー・マウンテンのスラム街にて。夕暮れ時に家路を急ぐ親子。