余談(8)『神道の逆襲』


 先月、伊勢神宮に行ったとき、往復の電車の中でとてもおもしろい本を読んだ。菅野覚明という人が書いた神道の逆襲』という本だ。神道についてほとんど何も知識がなかったので、何か入門書がないかと思って探しているときに偶然この本と出会ったのだが、まさに恰好の入門書だった。特に興味深かったのは、次の3つのことだ。
(1)「神」とは何か
 菅野氏によれば、日本の神とは万物の創造主や唯一全能の神ではなく「風景として自らをあらわしている『裏側』の何ものか」だという。日常性の背後に潜んでいるが、日常性を打ち破るなんらかの出来事(自然災害、迷子など)によって表面に現れ出てくる人間の理解をはるかに越えた力や現象こそが、神道における「神」なのだろう。
 したがって、「神」は善であるとは限らないし、倫理的規範とはまったく無関係な「神」がいくらでも存在する。人間に自分の卑小さを痛感させる現象、畏るべきものとして経験される現象は、すべて「神」との出会いの体験になるようだ。そのような「神」を、キリスト教のGodの訳語としたことに大きな間違いがあると菅野氏は指摘している。
(2)「如在の礼」
 本書全体の中では小さな取扱いしかされていないが、「如在の礼」という言葉がとても印象に残った。文字通り、祭祀において神がそこに在るが如く礼を尽くすという意味だ。神が目の前に在ると確信するならば、自ずからすべての所作が変わり、その人が醸し出す雰囲気も変わってくる。このような態度が重んじられるのは、そのような人の存在自体が祭祀の中に非日常性を生み出し、神との出会いの体験を媒介していくからだろう。このことは、実際に神道儀礼に参加してみるとよくわかる。
 これは、キリスト教の祭儀においても大いに参考にすべきことだと思う。司祭が御聖体の中に、会衆の中に、そして自らの中に神の存在を確信しているならば、自ずからミサ全体の雰囲気が変わってくるだろう。
(3)「神」経験の記述
 「あとがき」の中で菅野氏は「『経験』という不思議なものが、『経験』それ自身をとらえる言葉を生み出す現場を、神道思想に即して浮かび上がらせる」ことがこの本全体の狙いだったと述べている。わたしがこの本に引き込まれたのは、そのためだったのかとこの言葉を読んで納得した。つまり、この本は神道における神体験の記述の変遷をたどる、神道「神学」の概説書なのだ。
 読んでいくと、あちこちでキリスト教神学の発展と重なる議論が見つかる。人間が神について考えることは、洋の東西を問わず似てくるということだろう。特に驚いたのは、本居宣長がすでに神体験の体系的理論的記述の限界を指摘し、真理は物語によって、物語全体を通して直感されるものだと指摘しているという事実だ。近年、キリスト教神学の中でも組織神学の限界が指摘され、物語神学の試みがなされているが、神道の中ではすでに江戸時代に同じような議論がされていたことになる。(もっとも、キリスト教においても、抽象度の高いパウロの書簡が書かれた後で、福音書という「物語」が書かれたことの背景に同じような洞察が隠されているような気がしなくもない。)
 この本を手がかりにして、もう少し神道の「神学」を学んでみたいという気持ちになった。日本での福音宣教のために、それはとても大切なことだと思われる。

神道の逆襲 (講談社現代新書)

神道の逆襲 (講談社現代新書)

※写真の解説…伊勢神宮、外宮にて。