カルカッタ報告(26)「死を待つ人の家」へ

《お知らせ》本日発売の『カトリック生活・11月号』(ドン・ボスコ社)にこの旅についての記事が掲載されています。どうぞご覧ください。

 A.J.C.ボースロードを渡ってマザー・ハウスの向かいにあるバス停まで行くと、先に出発したボランティアたちがみなパスを待っていた。その中の1人に声をかけ、どのバスがカーリー・ガートまで行くのかと聞くと、今来たパスがそうだという。わたしは慌ててそのバスに飛び乗った。
 日本で「死を待つ人の家」として知られている施設は、正式名称を「ニルマル・ヒルダイ」という。ベンガル語で「清い心」という意味だという。施設全体がマリアの聖心に捧げられているのだ。英語では"The Home for the Sick and Dying Destitue"と入口の看板に書いてある。日本語に直訳すれば「病気で死にかけているとても貧しい人たちのための家」ということだろう。「死を待つ」という受動的な意味合いの言葉はどこにもないのだが、日本では初めて紹介されたときにどういうわけか「死を待つ人の家」という呼び名が使われ、それが定着してしまった。カーリー・ガートという沐浴場に近いことから、現地で働くボランティアのあいだでは「カーリー・ガート」と呼ばれている。最寄りのバス停の名前も「カーリー・ガート」だ。
 バスに乗って驚いた。がっしりした金属の車体で、床まで金属製だ。椅子も2人がけのしっかりしたものが前から後ろまでずらっと並んでいる。天井から吊輪さえ降りている。ほとんど日本のパスと変わらないような、立派なパスだ。
 15年前、カーリー・ガートに通うためにわたしたちが毎日乗っていたバスは、このようなものではなかった。当時のパスは、みな古ぼけてみすぼらしい車体のものばかりだった。椅子はガタガタしていたし、床は板張りだった。床板のところどころが割れたりはがれたりして、そこから路面が見えていることもあった。朝晩の通勤時間帯などは、たくさんの人たちが外から窓枠などにつかまるため、歩道側に傾いて走っていた。あの頃のことを思うと、まったく隔世の感がある。
 わたしが腰かけた席の前の席に座っていた50代くらいのヨーロッパ人女性に話しかけると、やはりカーリー・ガートに向かうボランティアの1人だった。スペインから来てもう2週間になるという。彼女についていけば、迷わず「死を待つ人の家」に着くことができるだろう。
 昔は、カーリー・ガートに向かうバスの路線は204系統だけだった。だが、今は3つくらいの系統のパスがカーリー・ガートの近くを通るらしい。バスの数が増えているのだ。車掌さんが料金を集めにくるシステムは昔と変わっていなかった。だが、値段は昔よりもずっと上がっていた。15年前、マザー・ハウスからカーリー・ガートまでの運賃は1ルピー20パイサだった。それが、今では6ルピーになっていた。5倍の値上がりだ。バスが立派になっているだけのことはある。それでも、日本のパスに比べれば比較にならないくらいの値段だろう。20分ほどのバスでの移動が日本円でたったの12円なのだから(1ルピー≒2円)。むしろ、昔が安すぎたのだ。
 バスはどんどん走ってエスプラネードの大通りに出た。そこでもう1つ驚くことがあった。なんと道が立体化されているのだ。昔の通りの上を、もう一本道が走っている。お陰で渋滞もなくすいすいと進むことができた。昔は必ずこのあたりで渋滞に巻き込まれ、4月、5月の酷暑期などはすし詰めのパスの熱気の中で死にそうな思いをしたものだった。空いていれば20分の道のりに、1時間かかることさえあった。カルカッタは確実に変わっている。バスと道路に関しては、そのことを実感した。
 快調に走るバスの左手に、高くそびえ立つ灰色の壁とピンク色の大きな建物が左手に見えてきた。カルカッタ刑務所だ。ここまで来るとカーリー・ガートはもうすぐそこだ。14年ぶりの再訪を前に胸が高鳴った。
※写真の解説…カーリー寺院の参道。右手の大きな建物が本殿。