《「兵庫・生と死を考える会」講演会終了御礼》


「兵庫・生と死を考える会」講演会・終了御礼
 インフルエンザを乗り越え、先日なんとか無事に「兵庫・生と死を考える会」での講演を終了することができました。医療の現場などで常に死と向かい合っておられる方々にわたしなどがお話しするのはおこがましいことでしたが、お招きいただきありがとうございました。
 このような機会を与えてくださった高木慶子会長、準備や当日の会場運営をして下さったスタッフの皆様、そして、お忙しい中お集まり下さったたくさんの皆様に心から感謝いたします。

「祈る心で寄り添う」
「兵庫・生と死を考える会」での講演内容より。
 今回、「死を待つ人の家」に行って患者さんの枯れ木のように痩せた足を無心にマッサージしていたとき、思いがけないことが起こりました。この人の肌の温もりの中にイエスがいる。この患者さんの苦しみを共に担いながら、イエスがこの人の中に生きていると理屈抜きに感じたのです。その瞬間、涙がこみ上げてくるほどの感動を覚えました。
 これはまったく意外なことでした。14年前わたしはマザーが言っている通り「貧しい人々の中にイエスがいる」ということを実感しようとしてずいぶん努力しましたが、結局できなかったからです。今から思えば、わたしはあの頃苦しんでいる患者さんを前にしながらその人の命と真剣に向かい合わず、「どうしたらわたしはこの人の中にイエスを見つけられるだろう」、「わたしはこの人に何ができるんだろう」などと「わたし」のことばかり考えていたのだと思います。「わたし」のことばかり考えて、目の前にいるその人の命から目をそむけていたのです。
 今回、わたしが患者さんの中にイエスを感じたのは、たぶん司祭叙階の恵みを受けてイエスの道具として行動するようになってきたからでしょう。自分の全てをイエスに差し出し、イエスに使っていただくというのが司祭の生き方の基本だと思いますが、そのような態度が「わたし」中心の考えの殻を打ち破ってイエスを見せてくれたのだろうと思います。
 それは、言いかえれば祈りの態度です。「わたしが」ということを考えず、目の前にいる相手の命と向かい合いながら、わたしを通してイエスがその命に働きかけて下さるのを待つ。そのようにしてわたしたちの中にイエスが宿ったとき、わたしたちは初めて相手の中にもイエスを見出すことができるのではないでしょうか。もし相手の中にイエスを見出すなら、わたしたちは深い共感の中でその人のために何かをせずにいられなくなるはずです。それが、苦しんでいる人々に寄り添うことの始まりだと思います。祈りながら相手に寄り添っていくという態度を、いつまでも忘れないようにしたいものだと思います。  
※写真の解説…「死を待つ人の家」で患者さんの服を直しているマザー・テレサ