バイブル・エッセイ(166)未来を神に委ねる信仰


★このエッセイは、4月6日にカトリック二本松教会で行われたミサの中での説教に基づいています。
未来を神に委ねる信仰
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき/広い道を高く通す。
 見よ、遠くから来る/見よ、人々が北から、西から/また、シニムの地から来る。天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め/その貧しい人々を憐れんでくださった。
 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ49:9-16)

 原子力発電所から放射性物質が今も漏れ続けているという現実を前にして、「一体、これからわたしたちの生活はどうなるのだろうか」という不安を感じておられる方も多いのではないでしょうか。先の見えない暗闇の中に閉じ込められてしまったように感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。本当に苦しい状況だと思います。
 わたしもその苦しさが少しわかるような気がします。修道生活の中で、先がまったく見えないような状況に置かれたことが何回かあるからです。神学生の時代には「司祭になれないんじゃないだろうか」と思ったことが何回かありましたし、叙階の秘跡を受けてからも自分が将来どこに送られるのか全く分からず、不安に感じたことがあります。「もうだめだ。自分の人生はおしまいだ」とさえ思ったこともありますが、そんなときにはいつも今日読まれた聖書の箇所を思い起こすことにしていました。「わたしたちを決して忘れることのない神様、わたしをここまで導いてくださった神様が、わたしを見捨てるはずがない。たとえわたしの目には失敗と見えるような未来であったとしても、神様が準備してくださる未来が一番いいに決まっている。」そう言い聞かせて、自分の未来を神様の手に委ねてきたのです。
 すべてがうまくいっているとき、わたしたちは「神様に全てお委ねします」と言いながらも自分が理想に思う未来を自分の力で実現しようと努力しがちです。そして、自分の思い通りにならないと不安や絶望に襲われるのです。もう自分の力ではどうにもならないような状況に追い込まれたときにこそ、わたしたちは本当の意味で自分の未来を神様の手に全てお委ねする信仰にたどりつくことができるのではないかと思います。そんなときにこそわたしたちは、自分の力で自分の未来をコントロールしたい、自分の思い通りに生きたいという思いから解放され、すべてを神の手にお委ねして自由に生きられる信仰を与えられるのです。それは決して「おしまい」などではなく、新しい、本当の命への誕生とさえ言える出来事です。
 神様は、決してわたしたちをお見捨てになることがありません。父である神様の御手に安心してすべてを委ねられる信仰へと、すべての執着から解放された新しい命へと生まれ変わっていくことができるようお祈りいたしましょう。 
※写真の解説…大きな被害を受けたカトリック湯本教会の屋根と十字架。