バイブル・エッセイ(936)信じる力

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信じる力

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:31-40)

 天国に行くか地獄に行くかは、その人が、「わたしの兄弟である最も小さい者の一人」にどんな態度を取ったかによって決まるとイエスは言います。すべては、わたしたちの生き方にかかっているということでしょう。他人の苦しみに心を閉ざし、愛に心を閉ざして生きているなら、その人は、天国への門も自分で閉ざすことになります。ですが、相手の苦しみに心を開き、愛に心を開いて生きているなら、その人はそのまま天国に行くことができるのです。

 お腹を空かせた人や、着る物のない人、間違いを犯して刑務所に入った人を見るとき、心を閉ざして「自分とは関係がない。わたしはあんな風にならなくてよかった」と考えるか、それとも「気の毒に。何とか助けてあげたい」と考えるか。その違いはどこから出てくるのでしょう。

 それはきっと、その人の心に恐れや不安があるかどうかの違いだと思います。自分自身もいつ失業してお腹を空かせたり、着る物が買えなくなったりするかわからない。うまくごまかしている悪事が、いつか露見するかもしれない。そのような恐れや不安を抱えて生きている人は、お腹を空かせた人、着る物のない人、刑務所にいる人を見たとき、「自分はあの人とは違う」と考え、自分を安心させようとする傾向があります。同時に、自分の将来を案じるあまり、「他人なんかにかまっていられない。自分のことだけで精いっぱいだ」という考え方にも陥ってしまいがちなのです。不安や恐れは心を閉ざし、わたしたちを愛から遠ざけると言っていいでしょう。

 では、どうしたら恐れや不安を取り除くことができるのでしょう。そのために必要なのは、信じる力だと思います。「父である神さまは、わたしたちを決して見捨てない」「王であるキリストは、いつもわたしたちのことを見守っていてくださる」、そう信じるとき、わたしたちの心は恐れや不安から解放されます。恐れや不安から解放され、心を大きく開くとき、神様はその開かれた心に愛を豊かに注いでくださいます。そのとき初めて、わたしたちは「自分だって、ちょっと間違えばああなっていたかもしれない。同じ兄弟姉妹として、何かしてあげられないだろうか」と考えられるようになるのです。心を満たした神様の愛が、わたしたちの心から相手に向かって自然に流れだすと言ってもいいでしょう。

 結局のところ、天国に入れるかどうかは、わたしたち一人ひとりの信仰にかかっています。王であるキリストの愛、父である神様の愛を心の底から信じる人は、その信仰によって救われ、信じられない人は、その不信仰によって救いへの門を閉ざしてしまうのです。

 では、どうしたらそんな強い信仰を持つことができるのでしょう。そのために必要なのは、同じ信仰、同じ希望を分かち合える仲間だと思います。どんなに強い人でも、一人ぼっちで信仰を持ち続けることはできません。互いに支え合い、助け合う仲間たちの存在こそが、神様を信じ、明日を信じるための力になってゆくのです。共に支え合い、助け合いながら天国への道を一緒に歩んでゆけるよう、寛大な王であるキリストに祈り求めましょう。

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