バイブル・エッセイ(167)イエスの沈黙


エスの沈黙
 エスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。(マタイ27:11-14,27-31)

 侮辱され、無実の罪に陥れられても、棒でたたかれ、唾を吐きかけられても、イエスはただじっと黙っているばかりです。この沈黙に、ピラトさえ「不思議に思った」と書かれています。イエスはなぜ、反論したり抵抗したりしなかったのでしょう。
 もし、わたしたちが同じような目にあったらどうでしょうか。人から侮辱されたとき、わたしたちが取りがちな態度はだいたい2つあると思います。1つは、かっとなって言い返すことでしょう。口汚くののしられれば、同じくらい口汚い言葉で相手をののしり返して相手に報復するのです。もう1つは、じっと黙ってはいますが、心の中で「なんだこいつ。今に見ていろ」とつぶやくことです。憎しみと不満を心にため込んで、じっと復讐の機会を待つのです。
 イエスがとった態度は、このどちらでもなかったと思います。黙っていたからといって、心の中で「長老やピラトのバカ野郎」と思っていたわけではないでしょう。エスが思っていたのはただ一つ、神から自分に与えられた使命、すべての人の魂を神のもとへと運ぶ救い主としての使命だけでした。その使命には、一つの例外もありません。イエスは自分を訴え、殺そうとする人たち、侮辱し、唾を吐きかける人たちも含めて全ての罪人を救うためにこの世に遣わされたのです。この人たちを救うためには、もはや十字架上で自分の命を差し出す以外にないと悟ったイエスは、沈黙のうちにすべての試練を乗り越えていきました。
 わたしたちも、このイエスの姿に学びたいと思います。侮辱されたとき、同じように汚い言葉で言い返すならば、それは相手の魂の救いのため何の役にも立ちません。黙って受け止めても、心の中でつぶやくならば、そのような態度は相手に神の愛を伝えないでしょう。そんなときは、イエスに倣ってまず相手のために祈りたいと思います。「神様、どうかこの罪深いわたしたちをお助け下さい」と祈り、「この人の魂の救いのために、わたしにできること何でしょうか」と神に問いかけるのです。それこそが、イエスに倣って生きるわたしたちに一番ふさわしい態度でしょう。
 そのような態度で生きるとき、もはやいかなる侮辱も罵りも、わたしたちの心を傷つけることはできません。すべての試練を、神から遣わされた者としてふさわしい態度で乗り越えていくことができるよう、神の助けを願いましょう。
※写真の解説…先日、京都での講演会の帰りに見かけた木屋町通りの夜桜。