バイブル・エッセイ(462)キリストの平和


キリストの平和
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。(エフェソ2:14-18)
 キリストは、「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊す」方だとパウロは言います。すべての敵意が取り除かれ、敵対していた者同士が神の愛の中で一つに結ばれることこそがキリストの平和だというのです。どうしたらそのような平和を実現することができるのでしょうか。
 キリストの平和を実現するときに気をつけなければならないのは、正義ではないかとわたしは思います。正義はそれ自体としてよいものですが、人間の心の中で敵意と結びつくことがあるからです。「自分は正しい。相手は間違っている」と決めつけるとき、わたしたちの間に敵意と分裂、争いが生まれてくるのです。確かに、「正しい意見」というものはあるでしょう。ですが、自分の意見が正しいということは、その意見を主張している人が正しいということとは違うのです。「自分は正しい」と思い込み、自分と違った意見を主張する相手を否定するなら、自分の意見を相手に押し付けようとするなら、その人を正しい人と呼ぶことはできません。仮に相手の意見が間違っていたとしても、相手の人格まで否定していいということにはならないのです。本当に正しい人とは、自分が神の前で不完全な人間にすぎないことを自覚し、相手を尊敬しながら正しい意見を言うことができる人のことです。自分は正しい人間だと思い込み、相手を否定するなら、その人は決して正しくないし、平和を作り出すこともできないのです。
 キリストは、十字架上ですべての敵意を身に受けながらも、ピラトや律法学者、ローマ兵などの存在を否定することがありませんでした。イエスの主張が正しいことは明らかでしたが、間違った意見を主張する相手を否定することなく、かえってすべての人が神に立ち返り、救われることを願いながら死んでいったのです。自分を処刑しようとしている律法学者やローマ兵たちのためにさえ祈ったのです。こうして、すべての敵意がイエスの大きな愛の中に呑みこまれてゆきました。こうして実現したのが、すべての人を神の子として受け入れる「キリストの平和」です。キリストは、そのようにして「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」たのです。キリストは、そのようにして命がけで悪と戦い、真の正義を守ったのです。
 たった一人でも存在を否定される人がいる限り、その社会に平和が訪れることは決してありません。自分の存在を否定された人が、黙って「はいそうですか。ではいなくなります」ということにはならないからです。自分の存在を否定された人は、必ず自分の存在を否定しようとする相手を倒そうと思うに違いありません。自分と違った意見を持つ相手の存在を否定するとき、必ずそこに反発と争いが生まれるのです。それは、殺し合いにさえ発展するかもしれません。真の平和は、すべての人が神の子として互いの存在を認め合い、意見の違いを乗り越えて相手をありのままに受け入れることからしか生まれないのです。
 もし相手が間違っていると思うなら、「わたしは正しい、あなたは間違っている」という態度ではなく、「わたしも弱くて不完全な罪びとに過ぎないが、あなたのためを思って言わせてもらいます」という謙遜な態度で諭すことが必要です。どんなに正しい意見でも、「わたしは正しい、あなたは間違っている」という態度で主張するなら、ただ反発を招くだけだからです。正しい意見は、謙遜な態度で、相手への愛のために語られるときにだけ、正しい意見として相手の心に伝わるのです。
 キリストは、あらゆる意見を持ったすべての人々を、一人残らず「神の子」として慈しみ深く見つめておられます。わたしたちが意見の違いによって罵り合い、憎み合うなら神様は悲しまれるに違いありません。自分と意見の違う相手も、かけがえのない「神の子」として受け入れることによって、「敵意という隔ての壁」を壊してゆくことができるように祈りましょう。