バイブル・エッセイ(196)良い麦と悪い麦


良い麦と悪い麦
 エスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:24-30)
 このたとえ話は、畑を教会と考えその中に良い麦、すなわち良い信者と悪い麦、すなわち悪い信者がいると読むこともできるかもしれません。ですが、わたしはむしろ畑をわたしたち一人一人の心と考え、その中に良い思いと悪い思いが同時にまかれていると読みたいと思います。
 以前にこんな話をきいたことがあります。イエズス会の神学生のセミナーで韓国に行き、とても有名な枢機卿様にお会いした時のことです。話のテーマは召命ということでした。わたしたちは、枢機卿様がどんな力強い証をしてくださるのか楽しみにしていました。ところが、まったく意外なことに、枢機卿様は「わたしは、いまだに自分の召命に確信が持てない」とおっしゃったのです。「自分が神父になったのは、本当は母親に言われたからだ」というのが、その理由でした。神学校に入ってしばらくして、そのことに気づいた枢機卿様は、霊的指導者のもとに行って相談しました。枢機卿様が「わたしには召命がないことがわかりました。もう神学校を出ようと思います」と言うと、その指導者は「まあ、大丈夫だから放っておきなさい」と答えたそうです。その後も数年のあいだ悩み続け、何回か相談に行ったそうですが、そのたびごとに「まあ、放っておきなさい」と言われ、気が付いたら神父になり、さらに枢機卿にまで挙げられていた。だから、「自分はいまもって召命に確信がない」とのことでした。
 しかし、客観的に見た場合、枢機卿様に召命があったことは明らかなように思われます。優れた指導力、常に抑圧された人々の側に立つ毅然とした態度、温和で謙遜な人格、イエス・キリストにかける熱い思い、それらのすべてが彼の司祭召命を証しているからです。霊的指導者は、そのことを見てとり「まあ、大丈夫だから放っておきなさい」と言ったのでしょう。実際、枢機卿様がもし悪い動機を抜き去ろうとして召命をあきらめていれば、韓国の教会の実りが今日ほど大きなものになることは決してなかったはずです。
 これこそ、まさにイエス様が話されたたとえ話の具体例だと思います。人間の心はとても複雑なので、何をするにしても、動機の奥深いところには良い思いと悪い思いが入り混じるのです。もし完全を求めて悪い思いを消し去ろうとすれば、良い思いまで根こそぎ抜いてしまうとになりかねません。
 苦しんでいる人たちのために何か良いことをしようとするとき、心のどこかに虚栄心や損得勘定が入り込むかもしれません。しかし、だからと言ってすべてをやめてしまうのは、毒麦と一緒に良い麦まで抜いてしまうようなものです。毒麦が入り込んでいることを十分に自覚し、謙虚な心で良い麦を育て続けるならば、終わりのときにわたしたちはきっと天国の穀物蔵にたくさんの実りを納めることができるでしょう。
※写真の解説…風に波打つ麦畑。