バイブル・エッセイ(231)将来を委ねる


将来を委ねる
 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)
 自分の将来を全く変えてしまうような思いがけないことを突然告げられにもかかわらず、マリア様は大きく取り乱すこともなくそれを静かに受け止めました。なぜ、十代半ばの少女にそんなことができたのでしょう。マリア様の落ち着きは、一体どこから生まれたものなのでしょうか。
 神の子をみごもるというほどのことではなくても、自分の将来を全く変えてしまうような出来事が突然やって来ることはときどきあります。例えば、ある司祭は長年に渡って理系の勉強をし、イエズス会に入ってからもその学識を生かした仕事につくのだろうと漠然と考えていました。しかし、叙階の直前に院長から呼び出され、突然「あなたには国語の教員になってもらいます」と告げられたそうです。まさに青天の霹靂、「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは国語の勉強をしたことがありませんのに」というくらいの出来事です。その神父さんもさすがに驚いたそうですが、次の瞬間には「はい、おっしゃる通りにします」と答えたそうです。その後その神父さんは40年に渡って国語の教員をされ、先年、無事に退職されました。
 一般の生活をしていても、そんなことはあるのではないでしょうか。例えば、病院で定期検査を受けたところ、まったく思いがけない病気を告げられてしまった。最愛の恋人から、突然別れの申し出があった。子どもが、絶対に受かると思っていた大学に落ちてしまった。そのような突然の思いがけない出来事、自分たちの将来をすっかり変えてしまいかねない出来事をどうしたら平然と受け止めることができるのでしょう。
 その鍵は、謙遜と信頼の中にあると思います。マリア様が天使のお告げをとっさに受け入れられたのは、「自分は主人である神様がなさることを何も知らないはしためにすぎない。全てを御存じで、いつも一番よい計画を準備してくださる神の言葉に身を委ねよう」と思えたからでしょう。さきほどの神父さんが院長の指示をすぐに受け入れられたのも、「長年勉強してきたが、自分の理系の知識などたかが知れている。院長を通して語りかけられた神の言葉に身を委ねよう」とすぐに考えられたからです。日々の生活の中でいつも自分の小ささを自覚し、神に身を委ねることが心の基本的な態度になっている人にとって、まったく思いがけない将来を受け入れることは、それほど難しいことではないのです。突然の思いがけない出来事にうろたえることがないよう、どんなときでも神の御旨を落ち着いて受け止められるよう、日々の生活の中で謙遜さと神への信頼を身につけてゆきましょう。 
※写真の解説…落ち葉に覆われた山道。六甲山、杣谷道にて。