祈りの小箱(64)『神が見えてくる透明性』


『神が見えてくる透明性』
 今日は、司祭叙階の恵みを受けてからちょうど5年の記念日。夏の黙想会で出会ったこの言葉を手がかりにしながら、司祭としてのこれまでの歩みを振り返りながら時を過ごしました。イエズス会員に向けて書かれたものですが、みなさんともぜひ分かち合いたいと思います。
 キリスト教徒は、誰もがイエス・キリストの存在を信仰に貫かれた生き方によって証し、そうすることで福音を世界中の人々に伝える使命を与えられています。わたしたちの生活の中には、どんなときでも信仰がなければならないのです。わたしたちが命がけで信仰を生きている姿を見るとき、人々はわたしたちの生活のすべてに、人間の力を越えた何かが働いているのを感じ取ります。そうでなければ、そんな生き方はできないはずだと思うからです。それが、「神が透けて見える透明性」ということでしょう。自分の思いや欲望によってくもらされた生き方からは、信仰も見えないし、ましてキリストも見えてきません。
 命がけで生きられた信仰を見るとき、人々が抱くのは「あなたがたはいったいどんな人たちなのか、こういうことをこんなふうにするなんて」という思いです。例えば、誰もが嫌がる町内の側溝の掃除を引き受け喜んで作業している家族を見れば、周りの人たちは「この人たちはいったいなんなんだろう」と思うに違いありません。普通の人間の思いを越えた気高い何かを、そこに感じ取るからです。その問いの答えがキリストへの信仰だと知ったとき、人々はキリスト教についての考えをきっと改めることでしょう。中には、キリスト教についてもっと知りたい、自分もこんなに気高く、すがすがしい生き方をしてみたいと思う人だっているかもしれません。それこそが、生きた福音宣教なのです。
 フランシスコ・ザビエルが日本に来たとき、人々はザビエルの言葉というよりも、むしろ生き方を見て信じたといいます。「この人は、なぜすべてを捨てて遠いヨーロッパからやってきたのだろう」、「なぜこんなに貧しい生活をしながら、いつも喜んでいられるのだろう」、「なぜ侮辱されても人々に仕えることをやめないのだろう」、そのような問いが人々をザビエルに引きつけ、その答えがキリストだとわかったとき、人々はキリストを信じたのです。この言葉は、イエズス会の福音宣教の原点を指示した言葉ともいっていいでしょう。
 すべてのキリスト教徒にこの使命が課されていますが、中でも福音宣教の先頭に立つことを自ら志願したわたしたち司祭にはその使命があると思います。自分のこれまでの歩みを振り返り、果たしてわたしの生き方は「神が見えてくる透明性」を持っているだろうかと自問しながら過ごした今日一日でした。
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