バイブル・エッセイ(285)み心の傷に隠れて


み心の傷に隠れて
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。(ヨハネ19:31-37)
 最近はあまり見かけなくなりましたが、「イエスのみ心」の信心は17世紀以降、イエスの胸のあたりに真っ赤な心臓を描いた御絵や御像と共に全世界へ広まっていきました。心臓が浮かんだイエスの姿は、カタリナ・ラブレーに出現したイエスの姿そのままだと言われています。なぜ心臓なのかと言えば、当時のフランスでは心臓こそがイエスの心の宿る場だと考えられていたからです。燃え上がるようなイエスの心臓は、人類への愛に燃え上がるイエスの心そのものなのです。
 神からの愛は、この地上でまずイエスの心に宿りました。これはわたしたちでも同じですが、人間の表情、言葉、仕草、行動などは、全て心から生まれるものです。心に生まれた思いが、体によって表現され、伝えられていくのです。神から注がれた愛も、まずイエスの心に宿り、イエスの表情、言葉、仕草、行動などによってこの世界に伝えられました。まずイエスの心を満たした神の愛が、イエスの体を媒介としてこの世界にあふれ出したと言っていいでしょう。
 やがて時が満ち、イエスの愛が十字架上で頂点に達したとき、神の愛は体を通さず直接この世界にあふれ出しました。エスの心が裏切りや侮辱によって傷つけられ、さらにとどめを刺すように槍で貫かれたとき、その傷口から神の愛が直接この世界にあふれだしたのです。心臓から流れ出した血は、イエスの心にあふれる神の愛のシンボルと言っていいでしょう。
 十字架上のイエスの心臓から流れ出した神の愛は、今もその傷口から絶えることなくこの世界に注がれています。神の愛は、今もイエスの傷口からこの世界に向かて流れ続け、この世界を満たしているのです。み心の御絵や御像を前にしてその愛の流れに呑み込まれ、神の愛に包み込まれるのが「イエスのみ心」の信心だと言っていいでしょう。
 み心からあふれ出す神の愛にすっかり呑み込まれたとき、わたしたちは傷口を通してみ心の中に吸い込まれていきます。み心を満たした神の愛の圧倒的な流れの中で、この世のことへの執着や感情は押し流され、消えてゆくでしょう。そのときもはや自分はなく、残るのはただイエスのみ心だけです。このことを、教会は伝統的に「イエスのみ心に隠れる」と表現してきました。あなたの大きな愛の中にわたしを包み込んでください、わたしの弱さや罪を消し去ってください、その願いを込めてわたしたちは「主よ、あなたのみ心の中にわたしを隠してください」と祈り続けるのです。
 「イエスのみ心」の祭日に当たって、この美しい信仰、イエスのみ心の中に隠れて生きる信仰を思い出したいと思います。イエスのみ心の中に隠れるとき、もはやこの地上に恐れるべきものなど何もありません。肉体の死さえも超えて、わたしたちはみ心の中に生き続けることができます。教会の伝統に心を合わせ、「主よ、あなたのみ心の中にわたしを隠してください」と祈り続けましょう。

★このステンドグラスをデザインした「イエスのみ心」のカードを、こちらからPDFでダウンロードできます。どうぞお役立てください。⇒ 
イエスの聖心(神戸中央教会).PDF 直
※写真の解説…カトリック神戸中央教会のステンドグラス。