やぎぃの日記(155)年の黙想in長束


年の黙想in長束

 10月14日の晩から23日の朝まで、広島市安芸長束にあるイエズス会黙想の家で、修道者の毎年の務めである「年の黙想」をさせてもらった。長束では今、修練者たちが30日の大黙想を行っている。わたしは、修練長の住田省吾神父が指導するそのグループの端に加えてもらったのだ。
 長束はわたしにとって、イエズス会に入って最初の1年半を過ごし、初誓願を立てて修道者としての第一歩を歩み出した思い出の場所だ。建物や庭のあちこち、とりわけ二つの大きな聖堂には、わたしの霊的生活の原点が刻まれていると言っていい。この長束という場所、大黙想の荘厳な祈りの雰囲気、そして住田神父の人格的な感化と優れた指導に助けられて、今年の年の黙想は例年になく恵みに満たされた黙想だった。修道生活に入って15年の節目の年を迎えるための準備として、来たるべき最終誓願のための準備として、神様が与えてくださった大きな恵みだったと思う。
 今年の黙想の一番大きな恵みは、三誓願を喜んで立てることができたことだった。正直言ってこれまで、毎年の誓願更新では、心にどこか躊躇や迷いを残しながら、それでも「修道者として生きる道を選んだのだから」と自分に言い聞かせながら清貧、貞潔、従順の誓願を立てることが多かった。しかし、今回はそのような躊躇や迷いがすっきりと消え、自分からそれらを選ばずにいられないような気がした。清貧・貞潔・従順の三誓願が、大きな犠牲である以上に、聖霊の喜びと力に満たされて生きるために神から与えられた大きな恵みとして感じられたのだ。わたしの生涯は、この三誓願の犠牲によってイエスの十字架と確かに結ばれ、復活の喜びと平和、命の中に移されていく。そのことを、8日間の祈りのある段階で、心から確信することができたように思う。
 『霊操』の始めに聖イグナチオは「霊操の目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を棄てる事であり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整える事について神のみ旨を探し、確かめる事である」と述べている。祈りの中で識別し、実際の生活を整えることが霊操の目的だとすれば、祈りの中で識別の恵みを与えられた今、大切なのはこれからの日常生活での振る舞いだ。イエスならばここでどう振る舞うだろうか、神はわたしに今、どう振る舞うことを望んでおられるか、そのことを常に意識しながら生きていきたいと思う。非常に困難なことにも思われるが、今回指導してくださった住田神父は、それが確かに可能であることを御自身の生き方によってわたしたちに教えてくれている。
 黙想の最後に旧修練院の畳の聖堂で祈っているとき、聖霊の大きな力がわたしの体に流れ込み、また流れ出していくのを確かに感じた。完全な調和の中で、自分が恵みの世界の一部になったような感覚だ。日常生活に戻ってもこの感覚を忘れず、この大いなる調和の中に留まり続けたいと思う。
※写真の解説…1枚目、旧修練院の畳の聖堂。2枚目、御心の丘のイエス像。